本番のための練習の量

最初のトライアスロンは、スーパースプリントと決めている。*1

 

本番のランは2.5kmになるから、練習では10km走れるようになろうと目標にしている。

 

本番のための練習量ってどれくらい必要なのだろう。2.5kmなら4倍走っておけばなんとかなるだろうくらいでいる。オリンピックディスタンスだとランが10kmまで伸びるから、そのために40km走りましょうというのはつらい。

 

負荷の質にもいろいろある。走ることなら、スピードと距離だろう。スピードは「この距離をこのくらいの速度で走ろう」という観点で負荷をかけるし、距離なら「今日はこれくらいまで走ろう」と最大距離としてどれくらい走るのかの観点になる。 

 

個人的には、スピードは気にせず、しばらくは最大で走ることのできる距離を長くしていこうと思う。そのうち頭打ちになってくるだろうし、レースを完走することが本来の目的だった。

 

今日は7km走った。あとは、スイムに身体をならしていこう。500m泳いだら腕が上がらなくなった。水泳は上半身のスポーツだ。

*1:オリンピックディスタンスの1/4の距離

本を泳ぐ猫

猫(大臣・雄・5ヶ月)が机のうえを破壊していた。

 

大きな音がして駆けつけると本の山がすべて崩れていた。ちょうど、真ん中のくぼみで大臣が寝っ転がっていた。

 

猫が反省すると思っていないから、なんというか、その光景を眺めていた。本を泳ぐ猫みたいだなと思った。片付けるのもめんどくさくなって、広がる本のなかから読んでない本を拾ってだらだらと読んでいた。大臣も書物に囲まれてごろごろしていた。お互い気を使わないことはよいことだ。

 

意外と、幸せというのはこうやって訪れるのだなと時間を楽しむことができた。視界いっぱいの銀、黄色、黒の表紙と横になる白猫って、なんだか豊かだった。

 

 

 

 

 

 

 

誤解されてもいんじゃない

時間が根本的になくて吐き捨てるように言い逃げされたり、論理的な話し合いでなかったり、素直に答えたら落ち度を自分のせいに暗にされたり。

 

それでもいいんじゃないかと思う。

 

誤解に嘆いていても、そのぶんの時間が惜しい。無理解に囲まれていても、唯一であることは寂しくなることではない。より自分の理想的な「秩序だったここではないどこか」を考えても仕方ないんじゃないか。

 

岡本太郎は「誤解の満艦飾」になれと言ってたという。

 

これから先、たくさんの誤解をされるだろう。そしてするだろう。誤解についてもうちょい考えを進めていきたい。

走る、踊るは似ている。書くことはどうだろう?

いままで、行為として<考える>と思っていたことが、まったく違うものなのではないかと疑問がわいた。

 

きっかけは、走っているときだ。

 

考え事(たとえば老害について)をしていると、ペースが続かず、歩いてしまう。

 

身体で考える感覚だと、走れる。

 

今日まで考えていたことは<考える>ではなかったことになる。頭で<考える>というのが以前の感覚ではある。それにしても、身体で考えてる感覚にに比べて、<考える>は浮かんでくるイメージが暗い。楽しくない。

 

一方で、踊ることは走ることに、とても似ていると思った。

 

強く地面を踏みしめるリズムが、一定の鼓動を刻みつづけるダンスに近いからだ。気づいてから走るのがより楽しくなった。思いっきり大地を蹴りたくなる。

 

書くことも、踊るようにできるといい。これから研鑽を積んでいこう。書くことに、<考える>ことは不要なんじゃないかとすら思っている。

老害と空間デザイン

今日は老害になってしまった。

 

昔やりこんでたゲームのコミュニティに顔を出して、方法論として合理性のある意見を言ったつもりだった。結果としては総スカンで、場は議論のためのものとして盛り上がったけれど、「そこまで真剣に考えなくてもよいのではないか」と言われた。

 

何を言っても空を切る感じでむなしかった。

 

私はそのコミュニティからしたら「誰だよお前」って感じの人間だ。毎日通う場所ではない。場に考える習慣を残したかったのだと思う。それに失敗した。

 

コミュニケーションは結果だ。引き出したい結果を起こせてないから、私の働きかけ方はまったく上手くいかなかった。

 

つらい問題でもあるのだ。コミュニティには長く続いて欲しい。ゲームの腕をより高く磨いてほしい。でも、働きかけれるのはずっとじゃない。一瞬に近い。

 

何も言わなければ見捨てたように自分には思えてしまう。任せるということも必要だ。考える習慣を残すために、空間にいた人たちにどうコミュニケーションを取れたか。どのようにデザインすればよかったか。どうすれば結果を引き出せたか。大事なのは結果のための場作りだ。反省。

 

まあ、楽しければいいじゃんでもいいとは思う。思うんだけども。

 

老害になっていく思考プロセスってこんな感じなのだろうか。

【トライアスロン】自転車ってどうやって会場まで運ぶの?

最近は5km走れるようになった。

 

いずれ、トライアスロンのレースに申し込みをすると仮定する。

 

初出場になる。つまり、自転車を会場まで運ぶ方法がわからない。

 

友人に聞いたら「車で運べば?」と言われた。他にも方法がないか探す。ウェットスーツの管理もしないといけないからできれば車以外が望ましい。

 

調べてみると、西濃運輸が『カンガルー自転車イベント便』というサービスをやっている。

 

www.seino.co.jp

 

出来るかぎり、当日と前日に扱う物は減らしたい。

 

車を借りる手間や自分で輪行用のケースを用意して運ぶ労力を考えると、運輸会社が提供しているサービスを利用することはよいように思える。

 

場合によっては自走も…。

書くことがないなら、あいうえお作文でもすればいい

毎日の更新をいちおう、目標にしている(今日で21日目連続)。

 

書くことがないってことは、厳密にいうと、ありえない。

 

友人に「それはさすがに嘘だ」と言われた。でも「本当にないなら、あいうえお作文でもして記録をつけたことにすればいい」とそのときは言い返した。

 

【きょうのできごと】

・あ 青い空が広がる暑い日でした。夕方になっても夜になっても蒸し暑い。

 

・い インド哲学を専攻していた親戚が、年内には東京に来るそうです。

 

・う 上野でシャツを買おうと電車に乗っていたときに思い出した。

 

・え 「エモさ」について友人と話した。もしかして芸術以外のシーンでも使う?

 

・お 大阪の松尾モノさんの個展、行きたかった…。

 

という風に、「きょうのできごと」というテーマで、あいうえおのフレームに要素を埋めていけば、それっぽく一日を思い出すことができる。

 

書くことがないんじゃなくて、「アイデアをひねり出す枠組み」がないだけなのだ。

 

思考の抽象度が高いことはよいことだ。

 

でも、自分の目に本当は何が映って何が動いているのか、ぼーっと眺めてみるのもたまにはいんじゃないか。

 

観察するまでの集中はしてないまでも、ちょっとずつ小さく見ていけば、昨日と同じ今日なんてないこともわかる。

 

それってつまり日々をよく見てけば、退屈しないってことになるんだけど、どうなんだろう?

【書評】39歳で太宰治もショパンも死んだ / 山田風太郎『人間臨終図鑑(上)』

 

 

[この本ってどんな本?] 

世界中のありとあらゆる有名人が、何歳で死んだか、死に際はどうであったか、解説されている本。

若くして死んだ人間から順番に書いてあります。

 

[どんな人におすすめ?]

・歴史が好きで、世界史と日本史の時代感を比較したい人
・人間の最期に興味があるエンディング系の研究調査がしたい人
・山田風太郎のエッセイのとっかかりが欲しい人

 

[山田風太郎ってどんな人?]

太平洋戦争後、日本を代表する作家。ジャンルは、大衆小説・娯楽時代小説。


たぶん20代・30代の人のなかには、マンガ『バジリスク 〜甲賀忍法帖〜』を見たことがある人もいるだろう。それの原作者です。(ときどきコンビニに置いてある『柳生十兵衛死す』も山田風太郎が原作)

 

 

1958年に『バジリスク 〜甲賀忍法帖〜』のストーリー展開が確立されていると考えると、いまのラノベやバトルものに与えている影響ってすごすぎる…。

 

エロ・グロ・ナンセンスはもとより「どうやって思いついたの?」となるくらいの奇想天外な発想で、忍法帳シリーズも、もちろんめちゃくちゃおもしろい。でも、エッセイのほうが個人的には好き。

 

[いちばんの見どころは?] 

知っている人の最期が読める。それがいちばんのポイントだと思います。

 

例えば、太宰はショパンと同じ39歳で死んでいる。

 

今回紹介する上巻では、芸術家・犯罪者の臨終が多く書かれている。


小説家の太宰も音楽家のショパンも、最期がものすごい幸せに見えない。「うっ」と途中でなりながら読むこと請け合い。太宰が少なく見積もっても、4回自殺未遂してるとは知らなかった。

 

時代感覚の比較も楽しい。

 

ショパンが死んだ同年に、アメリカではエドガー・アラン・ポーが死んでいたり、日本では葛飾北斎が死んでいたり。(1849年)

 

また、チェコのプラハでフランツ・カフカが死んだ年には、レーニンがロシアで亡くなっている。(1924年)

 

カフカは33歳で『変身』を書いた天才だ。しかし翌年には喀血し、結核と診断されている。サナトリウムでの治療もふるわず、最後は41歳で彼はこの世を去る。

 

死後、机の引き出しに残された手紙にはこう書かれていた。

 

僕の最後の願いだ。僕の遺稿の全部、日記、原稿、手紙のたぐいは、一つ残らず、中身を読まずに焼却してくれたまえ

 

僕の書いたものの中で、まず一応認めてもいいのは、すでに書物になった『死刑宣告』、『火夫』、『変身』、『流刑地にて』、『村医者』、『断食行者』だけである。それだけを一応認めるというのは、それが新しく重版され、明日の人々に読まれたいと願うのでは決してない。そんなものがすっかり無くなってしまえばいちばんありがたいのだ。ただ、とにかく一度出版されたものだから、それを持っていたいという人々が所持しているものまで、禁止しようとはしないだけのことだ

 

さすが、カフカ。アウトサイダー感を感じさせるというか、ヘンリー・ダーガーに先駆けてこの遺書が残っている感じがあります。

 

[最後に] 

私にとって山田風太郎は教養を身につけたいときに頼りになる作家だ。

 

彼のエッセイを読み始めるようになったのは、『風眼抄』が始まりだ。『自分用の年表』というところで「史実に沿って年表を整理していくと、夏目漱石がイギリス留学していたときに、ロンドンではシャーロック・ホームズが活躍していたことになる」と読んだときからになる。

 

娯楽時代小説の名手であった理由でもあるのだろうけど、ここまで調べ上げて、読んで楽しい本にもっていく力にはただ驚かされる。

 

山田風太郎が亡くなったのは、師匠の江戸川乱歩の命日だそうだ。『人間臨終図鑑』の著者にして、そんな最期を迎えるとは偶然には思えない何かを感じさせる。

 

 

 

 

【レポート】アダルトVRエキスポに行ってきました

adult-vr.jp

 

1991年8月6日世界初のWebサイトを、CERNのティム・バーナーズ=リーが作ってから、エロを原動力としてインターネットは発展をしてきました。

 

今後マーケット規模も大きくなるのは目に見えています。1500人以上とも言われた応募抽選をくぐり抜け、8月27日、アダルトVRエキスポに行ってきました。

 

おおざっぱに、Oculus Rift、HTC ViveなどのVRゴーグルをつける形の出展が5割。既存のアダルトグッズを振動や音声などで拡張した出展が5割といったところでした。

 

参加者も開発者も運営側も、みんないい意味で情熱的でした。コミュニティ的にめちゃくちゃおもしろいです。

 

2016年はVR元年と呼ばれています。

 

参加した感じ、

 

1.Unity(アダルトVRのプラットフォーム)

2.VR用ヘッドマウントディスプレイ

3.VRアダルトグッズ

 

の3点が安価で揃うのはまだ時間がかかりそうです。

 

まだ年月が必要だといっても、品質(エロさ)はすでに商品としては十分なものになっています。やばすぎて写真は選定をしたうえで後日この記事にアップしますが、コンテンツの普及スピードはお金がこれからどれだけの規模で入るかの問題なのかなと。

 

マーケット的には、雑誌、映像、風俗などの既存市場がどれくらいアダルトVRに合わせていくかの観点になります。普及までは10年くらいの長い目がいる体感でした。そこまでアダルトVRと既存産業は喰い合う感じにはならないでしょう。

 

最終的な環境としては、

 

1.購買データ、IoTへの反応データを人工知能が食べる

2.人工知能が解析してアダルトIoTグッズに反映する

3.反応したユーザーの結果をまた人工知能が食べて反映する

 

の繰り返しになると思います。

 

人工知能が今回の出展ではまだ見られませんでした。今後、アダルトVR用の人工知能が出てくると思います。

 

人工知能がアダルトVRをどう変えるかというと、「ストーリーがユーザー個別に変化していくこと」になります。

 

当然ですが、アダルト映像は放送する前から物語の展開が決まっています。人工知能が、ユーザー別にIoTデバイスへフィールドバックをしていくということは、「ユーザーごとに好みのストーリーになること」になります。

 

つまり、人工知能が登場することになると、「ひとつの人格とセックスしている感」がより本当に強くなります。皮肉ですが、日本の少子化が止まることはなさそうです。

 

 

最後に個人的なことを言うと、プロダクトのなかだとONASIS(オナシス)がいちばんおもしろかったです。あれは体験しないと魅力がわからない典型だと思います。まさか振動が「本当らしさ」の秘訣だったなんて…。

【映画レビュー】HAPPY ENDから見る喪失しない新海誠 / 新海誠『君の名は。』

www.kiminona.com

 

新海作品の本質は<断絶>だ。

 

特に、距離と記憶の2つ。


『君の名は。』では、この2という数字が重要になる。

今作では、全体を通して「2つのものが1つになる」というテーマが貫かれている。

  


話を戻そう。新海監督の根本にあるのは<断絶>である。

 

どの作品でも「距離もしくは記憶の補完が、ラストシーンまで決してなされない」のである。新海作品のルールといってもいい。

 

・『ほしのこえ』では、長峰 美加子と寺尾 昇は記憶の共有をしているが、目に見える形で2人が再会することは最後までない。(距離の断絶、記憶の補完)

 

・『雲のむこう、約束の場所』では、藤沢 浩紀は沢渡 佐由理と再会して終わるが、沢渡 佐由理のもうひとつの世界の記憶は戻らない。(距離の補完、記憶の断絶)

 

・『言の葉の庭』では、秋月 孝雄と雪野 百香里は記憶は共有しているが、映像では最後離れ離れになっている。(距離の断絶、記憶の補完)

 

しかし、今作では、立花 瀧と水守 三葉は最後に再会をしている。2人が話し合うことも含めると、その場で記憶も共有することになる。そう可能性が示されている。『秒速5センチメートル』だったら確実に話かけないですれ違っているというのに。

 

『君の名は。』のラストは事件なのだ。

 

なぜこのようなことが起こるかというと、今作のテーマである「2つのものが1つになる」が大きいのではないかと思う。

 

水守家の歴史が想起されるところでは、三葉と四葉の誕生からいままでが描かれるが、遺伝子情報が書き込まれているDNAの構造は2重らせんである。2本の鎖がお互いを補うように絡まっているのだ。ちょうど、Nature誌にDNAの形状を発表した研究者もワトソンとクリックという2人だった(さすがにこれはできすぎだけれども)。

 

新海作品では、バイオリンや携帯電話、靴などのツールがひとつの示唆になっていることがある。

 

水守家に代々伝わっているひもは、<結>としてのひとつの象徴なのだ。<断絶>を打ち消すのは<結>にほかならない。補完なのだ。作中では三葉は髪を編んでるシーンもあるし、四葉は髪をツインテールにして縛っている(ゴムの色は赤と青で分かれている)。

 

三葉が噛んで発酵させた酒を、瀧が自らの身体に取り入れることも、片割れどきで補完がされるのも今回のテーマが<結>だからに他ならない。おそらく、記憶と距離の<断絶>が両方ともラストまで示されないのは、新海作品のなかでも今作だけなのではないだろうか。

 

そういった意味で今回は衝撃をうけた。「最後別れないのかよ!」って映画館の座席でツッコミをいれたほどである。階段でお互いを確認したときなんてガッツポーズして「よーし!そのまま離れ離れになれー!なれー!」と自分でも意味のわからないことを心のなかで言っていたのに。そのまま話しかけるなんてびっくりした。「新海作品じゃなくね!?」とまで思いエンドロールで呆然としていた。

 

 

新海作品を観始めて10年になる。初めて観たのは渋谷の小さな単館系の映画館だった。衝撃を受けて、大学選びも新海がいた大学を受験したほどだ。そして、たぶん今作のような形で新海作品でびっくりすることは二度とないんじゃないだろうか。

 

最後に言っておきたいことは、新海は「ポスト宮﨑駿」と呼ばれて久しいが、実は『君の名は。』で『天空の城ラピュタ』の興行収入をすでに抜いている*1。ラピュタはジブリワーストとはいえ11億円だ*2。今作ではすでに12億円を超えている。どこまでいくかワクワクしている。

 

最近は『雲のむこう、約束の場所』のときの感傷的な感じ、喪失した感じはなくなってきていると思う。雲の向こうなんて最初のモノローグから「失っている感じ」ばりばりだった。

 

隕石の事故は、やっぱり3.11を彷彿とさせる。そこに新海は、「今作のような形があったら」とひとつの希望を見たのではないだろうか。住民が一丸となって危機に対処する展開に<結>を当てたのであろうし、三葉と父との協力からそれは始まっている。

 

新海作品に流れる<断絶>を、3.11の<結>が補完したのであれば、おそらく今回のストーリー展開はこれ限りである。でも、なぜかそんな気がしない。今後もHAPPY ENDの喪失しない新海誠になっていくのではないか。

 

変化に、寂しさはある。『君の名は。』のなかに新海特有の喪失感があるとすれば、それは作風の変化そのものにあるのかもしれない。 

 

 劇場アニメーション『言の葉の庭』 DVD

【会計】国の財政から考える「今日よりもちょっと悪い明日を生き続けること」

10年後がどうなるだろうかと考える。たぶん、経済はいまより悪くなっている。

 

豊かさは「選択肢として、いくつもの手段を選ぶことができること」だとする。Aを選ぼうがBを選ぼうがCを選ぼうが、それぞれにメリットがある。魅力的だと思うものピンとくるものを決めることができる。

 

経済が悪化すれば、国は弱くなる。豊かさの反対の意味があるとすれば、貧しさだ。「選択肢として、せいぜい2択で、どちらを選んでも今日より悪くなること」を言うのだと思う。

 

おおざっぱに、この国の支出を分類しよう。社会保障についてのもので3割、国債の償還に2.5割、地方に渡すお金で1.5割だ。合計すると7割だから相当のものになっている。

 

そのうち、社会保障費と国債について考えると、年々額が増えていると言ってもいい。少なくとも、増加に歯止めがかかることはないだろう。

 

国の収入は、これから劇的に増えることはない。平成に入ってからは上がったり下がったりしているけれど、古き良き時代に戻ることはないと思ったほうがいい。

 

こういうときの場合、努める方法は2つある。「収益増加」と「経費削減」だ。残念ながら前者のほうは有力じゃないから、後者のほうを策として行うことになる。

 

支出のいちばん大きなところは3割の社会保障費だ。内訳は、年金償還が5割、医療費が3割、福祉その他が2割だ。メスが入るならこの3つのうちのどこかになると思う。

 

はっきりいってしまうと、前提としてダメ元なのだ。削ったとしても、2000億3000億くらいでは防壁にならない。一般会計でもざっくり100兆円規模なのだ。それと比べてしまうと小さな額になる。つまり、将来的に「抜本的な改革」というのも存在しないところから考えていくのが自然なのだ。

 

悲観的なことを言いたいわけじゃない。でも、数字だけ見れば悪化し続けていく。「今日よりもちょっと悪い明日を生き続けること」についてはこれからも考えていきたい。

 

もし活路があるとするならば、生活を変えていくことだと思う。というのも、財政の前提は覆せないからだ。「いまのままの私でいい」という思想だと、国の財布が詰みそうなんだから、個人の生活も勝手に行き止まりになる。

 

悪化という形ではあるけど、「これから国は変わっていくんだ」と頭に入れてこれからの10年に適応していくことは間違いなく有効だ。とか言ってるとまあ、若者のなんとか離れとか指さされるのだろうけれども。

 

年金や投票層の問題で、高齢者を憎んでも的外れなのも言っておきたい。いまの社会のインフラを作ったのは先人たちだ。お陰様で世界で異様なレベルで、治安がよくって、美味しくて栄養のあるご飯が安く食べれる国になっている。彼らと 協力して国に働きかけていくくらいじゃないと虚しいだけだ。

 

 10年後、私たちの目の前にある選択肢はどんなものであれ、いまより「数が少ないし、どれもパッとしないもの」になるだろう。どう選択しようが昨日よりマシになることはない。

 

できることとしては、先を見据えての適応の準備。「なにに幸せを感じ、なにを幸せとするか?」を明確にしておいたり、積み重ねたら資産になるものに投資を始めたりしておくこと。教養でも人脈でも、なんでもいい。

 

最後にあるとすれば私だって怖いが、経費削減のときに、可能な限り合意の上でそれが行われるようにする態度なのではないだろうか。

 

【参考リンク】

1.

平成27年度予算の概要:予算委員会調査室(http://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/keizai_prism/backnumber/h27pdf/201513704.pdf)

2.

一般会計税収、歳出総額及び公債発行額の推移 : 財務省

3.

社会保障給付費の推移:厚生労働省(http://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/hokabunya/shakaihoshou/dl/05.pdf)

4.

日本国債 - Wikipedia

 

 

【書評】14歳中学生に「ニートは社会の希望だよ」と説明してみる / 飲茶『14歳からの哲学入門』

 

 

 

まれに見る「ざっくり解説本」です。良書。

 

哲学・思想を書いた本でここまで「わかりやすさ」に振り切った本って存在しないんじゃないでしょうか。

 

[この本ってどんな本?]

・哲学の歴史がざっくりわかる、人にも話せるようになる本です。

・ネットスラングありありで、口調もラノベっぽい。哲学書なのに途中でたまに笑う。

・読み終わったらなぜか本書を読んでない人より、哲学についての基礎教養がしっかりついている。

 

[どんな人におすすめ?]

・「実存」とか「構造主義」とかって何? 調べたけどわかんねー!と疑問を持つ中学生
・人間の思考心理の癖を知って、マネジメントに活かしたい経営者
・哲学の基礎的な態度を網羅する、入門書が欲しい大学1年生

・仕事はできるようになったけど、教養に不安が出てきた社会人3年目
 

[飲茶さんってどんな人?]

作者の飲茶さんは、一言でいうと、「ネットで有名になった哲学系の人」。おそらく「史上最強の〜シリーズ」は本屋さんで見たことがある方もいるのではないだろうか。

 

表紙、目立つから。

 

 

 

飲茶さんが経営者というのは、本書が成立してる大事な要素だと思う。科学者が哲学の本を書いたら、ここまでくだけてわかりやすい解説には、立場上踏み込みづらいからだ。

  

[哲学ってそもそも何?]

本書では、「人間の認識は正しいの? なんで正しいの? 限界はあるの?」といった認識論を中心として進んでいく。

 

「そもそも哲学ってなんなの?」という疑問に対しては、以下のような記述がある。

 

「古い常識を疑って今までにないものの味方を発見し、新しい価値観、世界観を創造する学問」(p3) 

 

 「哲学とは、『価値』について考えることである。今までにない新しい『価値』を生み出したり、既存の『価値』の正体を解き明かしたりすることである」(p40)

 

哲学者のキャラクターにも焦点を当てつつ、解説は進む。なんというか、さすが既存の価値観をぶち壊してきた哲学者たち。一般的な中二病のイメージすら、完全に超えている人たちばかりだ。

 

[いちばんの見どころは?]

6章「これからの哲学」がおすすめだと思っている。紹介してきた哲学者の流れを引き継いだ上で、飲茶さんが持論を展開しているからだ。

 

飲茶さんはこう書いている。

 

つまり、「死の延期(衣食住、医療、治安)」というプレゼント欲しさに、誰もが社会の奴隷となり、社会の継続に人生を費やすこと(労働のみじめさを甘受すること、やりたくもないことに貴重な時間を消費すること)を当たり前(常識)と思うようになってしまったのだとボードリヤールは指摘するのである。(p329)

 

では、そんな社会を打破する存在がいるのか?

 

いるのである。

 

ニートだ。

 

すなわち、ニートこそが、記号消費社会における唯一の希望の光であり、かつ、現在に存在する唯一の哲学者なのである(現代哲学の系譜を受け継ぐ、今の自称哲学者たちは、しょせん言語ゲームの中で相変わらずの言葉をグルグル回しているだけなのだから決して哲学者ではない。言語ゲーム、脱構築、記号消費社会……。前時代の偉大な哲学者が生み出した自己完結システム……。それらを乗り越えようとする気概と意思を持たぬ者は、誰一人として新時代の哲学者とは呼べないのだ)。(p332)

 

詳しくはもちろん、本書を読んで確認していただきたい。

 

[最後に]

世界でいちばん売れてる本は聖書だ。そして、宗教と同じくらい、人の根底に流れているのは哲学なのだ。

 

「人間がいままで何を考えてきたか、そして、これからどこにいくのか?」を考えるのに哲学の流れの把握はかかせない。ビジネス・芸術・科学の態度を作ってきた根本であるともいえるのだ。

 

読み終わったあとも、興味のある哲学者や考え方に、当たりやすくなっている(原著を買うためにも、索引がついてないことが惜しい)。

 

歴史とともに思想が移り変わっていることは、真理の不在っぷりを示していることにもなる。その意味で、私たちが生活している実態は、何かしらに先駆けて、ひとつの真実であるんだろうなとは思います。

 

それがニートであってもなかろうとも。 

 

 

14歳からの哲学入門 「今」を生きるためのテキスト

 

 

 

 

 

身体への評価が自己評価を超える

今日も5km走った。身体も慣れてきたからタイムを測り出すのもよいと思う。

 

走っているときに気づいた。友人がびっくりするくらい私は自信があるジャンルとないジャンルが分かれている。このまま身体への評価が自分のなかで高まると、身体への自信が、平均的な自己評価を超える。その結果、どうなるかはわからない。そうなる前にBefore・Afterでこの記録をつけておきたい。

 

集中する癖があるのに加えて、集中することそのものが好きだから、将棋の対局中なんて身体なんて邪魔だなあ、精神だけでいいのになあとよく感じていた。

 

存在が、無視できない身体になってきている。自分を大切にすることが自分の身体を大切にすることだとするなら、理屈としては原始的に理解できる。

 

ひとつの実験としてこのまま進めていこう。

 

自分の身体が客観的に価値があるとわかるから大切にするのだろうか。

 

どちらかと言えば、走ることが身体を意識に上らせているのと、目標の達成のためのパートナーであることが今回は本質的に大きい。

台風と筋トレ

台風が多いのもあって、外に出て走れていない。

 

家で靴下を履いているというのに、何もしないのも癪だから、筋トレをすることにした。

 

走るための筋肉は、走るだけではまんべんなくはつかないらしい。

 

度付きのゴーグルも買った。家では筋トレ、外では泳いでまとまった身体にしていきたい。

 

筋トレは昔から嫌いだ。中学生のときには「筋肉をつけすぎると背が伸びなくなる」と聞いて、部活動のメニューはサボっていた。

 

いちばん筋肉がついた時期って、田舎に帰っていたときに吹雪のなか毎日雪かきをしていたときだと思う。自然と仲良くするというお題目が嫌になるくらいのホワイトアウトもあるなか、道路脇の雪を早朝どけていたら、異常なくらい腕の力がついた。

 

ついた筋肉は維持するためのトレーニング量がまた必要になるから、他の活動をしているあいだにすっかり衰えてしまったけれどあのときくらいまでまた鍛えたい。

 

 

 

生きてはいけないという感覚

また自転車の調整をしてもらった。トライアスロン、本当に出る準備をしている。今年中には1回走る予定。太宰治の麻の着物じゃないけど、未来に予定があることに励まされることもある。筆頭は、音楽のライブチケット。楽しみに待つということは、幸福以外のなにものでもない。

 

小学生のころ、「目をつぶった瞬間に20才くらい一気に歳を取ってないかな。その間の記憶は一切思い出せないとして」という遊びをよく授業中の暇つぶしにしていた。

 

ある朝、目を覚ますといきなり80才になる話でもいい。洋服に着替えて、電車に乗って町に出る。老い先は短いが、私のことを誰も知る人はいない。私はそこで新しい人生を始める。そんなことを考えていた。

 

気を抜くと生きている感覚を忘れる。生きているってなんだっけ?となる。生きていけるのかと不安になることもある。

 

将来に対する不安は、誰でも何度かは覚えがあると思う。でも、この種類の不安で、気分を悪くする必要もないのではないか。「生きていけないという感覚のままで居続けること」を、人間は実は行っていない。すぐに行動に出たり、さらにネガティブな感情を引き起こしたりする。

 

生きてはいけない不安→(だから)→自らを粗末にする

 

生きてはいけない不安→(だから)→明日に絶望する 

 

というパターンをいくつか見てきたし、小さいころはそういう経験もあったから、ここでさらに考えていくと、「不安だから」は理由になってないと思う。ただ不安な状態をキープできないだけなのではないか。

 

不安なままでいることができる能力をネガティブケイパビリティという。正確には、「はっきりしないあやふやな状態を、理解しないまま解決しないまま維持しとどまり続けることができる能力」。

 

生きてはいけないという不安にとどまり続けてみると、どう考えても、<だから>という順接でいつも思考が飛躍していることがわかる。不安とははっきりしない不明瞭の極地だ。そこにいることは辛いけど、とどまっていても何も起こるわけではない。

 

生きていけるかわからないなら、わからないままでそのまま生きてみるのもいいんじゃないかと思っている。

 

 不安という感情には弱点があって、じぃっと見つめ続けるとそれだけで霧散してしまう。生きてはいけない感覚があるからといって、だからなんだというのだ? 暗く見える海だって入ってみれば温かいかもしれないじゃないか。