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フルマラソンから考える文章の限界速度と限界距離

フルマラソンの訓練にあたり、3時間を切るレベルで走れる人からアドバイスがあった。

 

「ふたつ平行して進めてください。ひとつは限界速度。これ以上走れないって距離で5km走ってください。次に限界距離。これなら疲れないだろってペースで20km走ってください。交互にやっていくと、次第に20kmを全速力で走れるようになります」

 

これは文章にも言えて、記入速度と文字数に分けれる。

 

制限時間を設けて最速で400文字書く訓練。

 

制限時間を設けずに疲れないくらいで休み休み4000文字書く訓練。

 

試していこうと思う。

眠いときに書けること

いつも0時までに書いている。眠いときもある。

 

なにも思いつかない。そんなこともよく発生する。

 

あいうえお作文でもすればいいじゃないかと自分で書いていた。今日は、そんな気分でもない。時間がだらだらと過ぎていく。眠いから焦りもしない。

 

時間は止まっている感覚にならないのは、意外と言えば意外か。

 

夜の砂浜にひとり立っていて、快も不快もなく静かに砂の動きを眺めている感覚だ。暑くもない。寒くもない。死の予感もせず、砂に飽きたら遠くのなんにもなさそうな海の向こうでも見る。風がつよく吹くことなんてない。

 

時間を気にしなくなるのは、集中しているときだ。眠たくって、急いでもない夜には、時間が目に見えるようだ。雨も降りだした。ラジオからはMCの小さくてコケティッシュな声が聞こえる。

 

眠いときってそんな感じだ。小さいころから変わらないことだと思う。

 

 

「可能性」ってどれくらい可能なの?

人は言葉、単語に対して感覚がある。「月」と言ったら、満月を浮かべる人も三日月を連想する人もいる。それぞれだ。

 

「可能性」は私にとって力強い言葉だ。学生のころに「可能性の可能性を信じよう」と心に誓った。理由は忘れた。酔っ払っていたのかもしれない。

 

「可能性」が含んでいる可能性のイメージには、希望がある。そんなことが可能だったのか!と驚かせてくれる夢がある。

 

今日からは、それに加えて、「想像力」がいつも私の想像を超えてくることを期待しようと思う。

 

毎日、似たようなことを繰り返していると生きることに飽きていくる。「一度は体験したパターンがまた起こるだけなのではないか」と、うんざりするほどなにもかもに退屈してくる。好奇心が死にかけになる。「これから、一生、私の知らないことはなにも起こらないのではないか」。つらい人には、本当につらい感覚だ。

 

「想像力」は、つねに私の想像力を超えたところにあって欲しい。そしてそうであると私は信じようと思ったのだ。

 

「可能性ってどれくらい可能なの?」、「想像力ってどれくらいまで想像できるの?」。

 

そんな質問には「それは、私の考えのいつも外側にある」 と答えたい。

 

ベーグル屋のジョイント・ベンチャー先は、どこだ?

ときどき行っているベーグル屋さんが開店前にヨガ教室を始めていた。店内に貼ってあるチラシを見た瞬間に思った。商売うまい!*1

 

そのベーグル屋さんは素材にこだわったいわゆる自然派食品のお店。早朝のヨガが終わったら、お客さんはそのままベーグルとスープセットを食べて帰るだろう。お客さんの健康不安や向上心を、ヨガ会場を提供するという形で解決している。ベーグル屋の集客、顧客への価値提供を同時に行えている。

 

ヨガ教室の方から見ても、すきま時間に会場を借りないでサービスの提供ができる。ベーグル屋、お客さん、ヨガ教室のみんなが喜ぶ状況になっている。

 

自然派の商品を欲しがるお客さんってそもそもどんな人たちだっけ? どんな感覚を味わいたくて、無添加のベーグルを買っているんだっけ?

 

そういった考えがジョイント・ベンチャーに結びつく。ベーグル屋さんは資源を投資したわけじゃない。店を開ける時間を早めていつもとは違った顧客に会場を提供しただけだ。金なし、手間なしのよい例に思えた。

 

そう考えると、ライフスタイルの提案って力強い。需要を種にして、それを広げていってあげる感じなんだろうか。ニーズの用途開発というか。ひとつのプロダクトにいかに多くのキャッシュポイントを作れるかというか。

 

 

*1:実際、食事中に、お客さんが1人新規で加入していた

「過去、未来、現在」を簡単に考えてみる

過去は、コントロールできない。変えることができない。現在から、過去の解釈を変えることはできる。

 

未来は、コントロールできる。ほんの一部だ。正確に言ってしまえば、未来はコントロールできないかもしれない。それでも、コントロールすることを諦めていいわけではない。諦めないことが必要なのは、現在のときだ。

 

現在はいちばんコントロールが利く。過去の解釈は、現在からしている。未来の解釈も、過去を参照して、現在からしている。未来は、実は、現在の連続した先である。「いつか」なんて日はこない。

 

過去を後悔しないためには、納得のいく現在にするしかない。満足がいっている現在からじゃないと、豊かだった過去は見えない。そのために、現在で行動をする。

 

未来を予測することは、未来に向けて行動をすることだ。でも、未来に行くことなんてできないから、現在のときに行動する。「未来に生きてる」という表現は多少の現実逃避を含んでいる。悪いことにはならないけれども。

 

ほとんどの人は、現在、現実を省略したり拡大したりして生きている。そうやって行動したり行動しなかったりしている。

 

 

 

 

World Wide 腐女子

今日もオンライン英会話。ビジネス英語を学ぶはずだった。

 

気づけば、30分アニメの話をしていた。

 

講師の方は腐女子で、英語で腐女子は「FUJOSI」という(そのまんまですね)。

 

世界って広いなあと思う。世界に腐女子は広がっている。世界各国の腐女子を束ねた腐女子ネットワーク的なものもあるとのこと。秋葉原や池袋の情報も普通に入ってくる。将来は、日本に来て働くのが目標と言っていた。そういえば、私の友人でもアニメ好きすぎて東京で働いてるフランス人いたわ。

 

英語という空間で、日本のサブカルチャーについて話すことができる。日本人でよかったなと思う。

 

カップリングは英語だと「(relation)shipping」というらしいです。そこは違うのね。

 

 

「使命感」って気のせいなんじゃないか?

歳を取るにつれ、こだわりもなくなってきた。

 

「意識高い系の学生は、その後10年どういう人生を歩むのか?」みたいなのには興味があって(私は意識低すぎて床の下にめり込んでるくらいの学生だった)、給料の高いところに勤めれば、30歳になる前にマンション買えちゃう人とかいる。昔だったら圧倒されていたと思う。でも最近は、もう他人だって私だって突き詰めれば趣味で生きてると捉えられるようになってきた。分けれるようになってきたというか。

 

「趣味」という言葉を具体的にしていくと、好みや思想のことであり、人は最後のところでは自己満足にいきつくのではないか。

 

以前Twitterで見たと思う。国境なき医師団の方が、とある講演で「それでも、人助けしたいという自分がいて、それが自己満足だということを忘れてはいけない」とおっしゃっていたそうだ。(間違ってたらごめんなさい)

 

職業に貴賎はないと言うつもりはない。崇高に思われる仕事でも、そうでない仕事でもなんでもいい。それが行いたいという欲求を抱えている自分がいることを忘れてはいけないんじゃないか。

 

「社会のために」って思っていたとしても、「社会のためにと尽くしたい自分がいること」を意識していたほうがいいのではということだ。

 

私やあなたが、仮に、善性や神性の代弁者だったとしても、「代弁を行いたかった自分」からは逃げられない。

 

じゃあ、義務感や使命感はなんなのだということになる。私は、「それは気のせい」だと言ってしまいたい。ヒューリスティックな観点からすれば、確信は、その個人においては確実性が高い。それでも、他人から見たら意味わかんないときがある。いくらひらめき直感タイプの起業家でも、事業の説明は「WHY」から始めないといけない。「電波が届いた」といった表現をしているのは猪子寿之氏しか見たことがない。

 

こう書いているとわかるんだけれど、「使命感」は、他者に説明するための言葉なのと同時に、ストーリーを呼び起こす単語でもある。なぜかというと、もともとの「使命感にあたる何か」は、勘や感覚に近いものだからだ。そこまで理性的なものではないと思う。「やらなければ」といった気持ちも、自分か誰かが作った、物語にのっかっているだけなんじゃないのか。

 

 

調味料をいきなり入れる人が許せない

ラーメンや蕎麦に、コショウ七味をいきなり入れる人が許せない。

 

私の家族がそうなのだけれど、「へい、お待ち」とカウンターを越えて目の前に置かれた熱々のラーメンに、なんの躊躇もなくドバドバとコショウを入れる意味がわからない。

 

なんのための調味料なの?

 

文字読めないの? 「味を調節するためのもの」だから調味料なんじゃないの?

 

まず一口食べようよ。味を確かめたうえで調節しようよ。

 

いつもは頭きれきれで仕事しているコンサルの人が、ほうれん草のお浸しになにも言わず醤油をかけるのも許せない。

 

それ思考停止してない? いつもの癖でただかけてない? 全然ロジカルじゃなくない? そのプロダクト、前提間違ってたかな?

 

ご飯が好きだという方たちには味も大切にしていただきたい。作ってくれた人のデフォルトの味をちゃんと理解しよう。

 

 

「時間がない」って貧しくないか?

予定は絶え間なく続いていく。毎日、同じことを繰り返したり繰り返さなかったりする。

 

あれもしなけりゃこれもしなけりゃとカレンダーに色がついていく。朝、ご飯を食べる時間がなくなったり、夜、お風呂にのんびり入れなくなったりする。

 

時間は、資産の種類では文化資本に入る。時間がないことは、貧しくないだろうか。豊かさの定義はまだこのブログのなかでできてないけれど、食べているものの味を楽しんだり、リラックスするための時間も作れないのは、豊かではないと思う。

 

思考停止にも対象がある。なにについて考えていることをやめているか?だ。そのなかで、時間について考えることができないのは相当危険な状態にある。だって、なんのために忙殺されているのかがわからなくなっているのだから。

 

効率よく人生を生きるってなんなんだろうなと時々もやもやとする。どう生きるかなんて人の自由だ。それでも、時間対効果を追求しなくてはならないくらい生きることは貧しいものだったんだっけか。

 

 

なぜ本音を他人に打ち明けないといけないのか

人の顔色をうかがってばかりいる。本音を言うのも苦手だ。

 

それでも思うのは、一度本音を打ち明けると、後々さらに言いづらいことが出てきたときに、それを告げなくても問題が解決されることが多いということだ。

 

本音は、未来に起きるやっかいなことのサイズを予め小さくしてくれるみたいだ。

 

真実を告げるなら早いほうがいい。問題が問題でなくなって、本当のことを告げなくても、自分の目的が勝手に達成される状態になる。

 

 

 

生産性の定義は「短時間に大量のタスクをこなせるか」ではない

以前までは、生産性を「少ない時間でいかにたくさんのタスクをこなすか」で考えてた。

 

でも、それは歳をとって変わってしまった。

 

いまでは「いちばん大事なことを決めることができる」になった。これがいまの私の生産性の定義だ。いちばんだけでいい。たった一つで十分だ。それ以上はない。

 

いちばん大切なものを自分で決めることができる能力。それが、生産性なのだ。

 

残りの人生を考えたときから感覚が変わった。悪いんだけど、余命から考えると大切なことしかやっていけない。

 

 

書いていてついでに思い出したことがある。

 

それは、「考える」とはどういうことかについて。

 

2005年に、アメリカの作家David Foster WallaceがKenyon大学で行った卒業スピーチから引用する。

 

「自分の頭で考えられること」というのは、「自分の頭で考えられるということは、何について考えるか、ある程度自分でコントロールできる術を学ぶこと」を端折ったものだ、とようやっとわかってきました。つまり、研ぎすました意識を持ち、自分が考えるべき対象を選び、自分の経験から意識的に意味を抽出できるようになること。それができないと人生はツラいものがあります。 

 

神秘的な一体感ってのは違うかもしれませんが、唯一無二のシンジツ[3]とは、「どう物事を見るかは自分で選択できる」ということです。これこそが君たちが受けた教育が生み出す自由の意味です。「適応力がある」という表現の意味です。何に意味があって何に意味がないのか自分で意識的に決められること。何を信じるか自分で決められること。

 

これより上の知性はないんじゃないかってくらいの天才的なスピーチだと思う。そして、たぶん生産性もそういうところにあるんじゃないのかな。

 

スピーチの全文が載っているブログ→これは水です

 

 

multiの読み方

オンライン英会話を続けている。何年やってるかもうわからないくらい会員をやってる。

 

今日は、英語での就職面接を希望した。私が受験者で、講師が試験官だ。仕事のやり方について話しているときに、「マルタイ」と言われた。続く言葉で「タスク」と聞こえたので、それなら「マルタイ」とはなんなのだ?と疑問がわき、会話が止まってしまった。

 

質問をしたら、「マルタイ」とは「multi」のことだった。マルチは日本語での読みだったのだ。クラスが終わってから発音を調べて改めて驚いた。

 

まだまだ知らないことが世界にはたくさんある。違う言語圏ならなおさらだ。

 

これからも出会えることがあると思うとわくわくする。

 

 

正解の距離感

苦手なものは星の数ある。距離感は常に上位に存在する。

 

距離感とは空間によって規定されるものだと思う。図書室だったら静かにしないといけないから心理的な距離は近くなる。全校集会とかなら公的な目も厳しくなるからよそよそしい振る舞いのほうが好まれるだろう。そういう意味で空間が限定されてないところで人と接するのは苦手だ。

 

どうしてもコミュニケーションに正解があると思い込んでしまう。事前に準備していても人間がどう動くなんて正確にはわからない。できれば普段、そばにいる人には喜んでいて欲しい。

 

私はめんどくさがりだから、人付き合いもおっくうになるときがよくある。即興でのコミュニケーションも苦手だ。コミュニケーションは結果である。引き出したい反応を起こせないなら失敗だったということ。距離感はその重要な要素だと思う。

 

心理に距離があるのはおもしろい。そして難しい。近づきすぎるのがいつも怖い。離れているとなぜ敬語なの?とよく言われる。なにか間に置いて接するくらいがちょうどいいのかもしれない。このブログで書いていることもそれに当たると思う。

身体の意味

身体に意味はあるのか考えてみた。

 

ないんじゃないだろうか。身体がなぜ存在しているか。生まれたから、くらいだ。

 

意味と似た言葉で、価値という単語がある。身体の価値。

 

身体の価値は、意識的なり無意識的なり、私が決めている。

 

身体はどのくらい自己イメージに関わってくるのだろうか。

 

テストの点が悪くて自分が嫌いになったり、自分が鏡に映る姿を見て嫌いになったり。

 

身体と存在の肯定感を考えると、ふたつは近いところにある。

 

 

断ることに必要なのは優先順位

友達の誘いを今日も断る。心が痛い。社会を裏切っている気分にもちょっとなる。

 

いま行っていることが優先順位がもっとも高いから、他のことはできなくなっている。個人的にはよい兆候。

 

なぜかというと、断るのが苦手すぎて、なんでもOKしてしまうところが10代の頃にはあった。何を基準にして断ればいいのか、自分のなかになかったのだ。

 

断るという行為は、自分のなかに優先順位が存在しないとできない。自分を大切にするという言葉には、自分のなかに優先順位をつくることも含まれる。大切なものを集めていけば、勝手に不安なく断れるようになる。

 

まず大事なのは、やりたくないことを辞めることだ。そこから生まれる新しい時間を運用して、暇を重視する。

 

やりたいことが始めれたら、やってみたいことは出来るかぎり入れないようにする。