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薄っぺらい自分と向きあう

 最近は、リサーチばっかりやっている。エクセルに英語のデータがたまっていく。

 

ときどき「私はなにをやっているのだろう」とも思う。

 

家族を作る友人や、家を買う人たちがいる。私はただ自分がやりたいことをやっている。言葉を変えれば、やりたくないことはほとんど辞めてしまった。

 

自由と表現すれば、たしかに自由。人と話すことはあるから、孤独ってほどでもない。

 

そんななかで、自分って薄っぺらいなあとつくづく感じる。

 

印象操作をして体裁を取りつくろったり、人に優しくするのも上手になった。

 

やろうやろうと思っていたことができなかったときも「対象について考えた時点で、それを実行したことにしよう。また明日考えたときに試せるかもしれない」とマラソンみたいな大人の考えもできるようになってきた。体力のないときも、無理をしなくなった。

 

でもどうしても「なにもできない自分」とはまた違う「偽りの世界が好きな自分」がいる。非現実的なことに心とらわれる。日によっては、現実に生きていない時間のほうが多い。

 

そんな状態のときは、家や土地のこと、結婚や子どものことなんて、頭のなかにない。

 

社会を動かす中身の部分に、自分が入れてないような気がする。薄っぺらいとはそんな感覚だ。

 

マンガの『プラネテス』で、主人公のハチマキが「嘘つきの自分と向きあっていく」と話すシーンがある。ハチマキが非現実的な目標(木星往還船「フォン・ブラウン号」の選抜試験の通過)に挑戦するとき、たぶんその場面が出てくる。いまなら、その心境はよくわかる。

 

私も、自分のなかでは真実を感じていることでも、世間に対しては嘘をついている気分になることを、これからもたくさん抱えていくだろう。

 

年齢のわりに人生経験がないと言われるかもだが、私は人から見たら価値がないものに入れ込むことはあるだろうし、薄っぺらい自分とは手を取って歩いていきたい。

 

 

途中の楽しみ

集中できるときは、きまってなにかしらの途中だ。

 

授業の最中がいちばん熱中できる。授業とは、家に帰るまでの途中だ。短くとらえれば、授業の終わりが見えているからこそ、間に浮いてる時間に集中できるとも言える。

 

古本屋で掘り出し物を探しているときも、友達の家でマンガを読んでいるときも、サンディエゴ行きの飛行機に乗っているときも、打ち込めるのは「終わりある時間」が見えているからだと思う。

 

無限に許可をされていると、やらない。図書館で一度に10冊借りたときなんか、1冊1冊にとてもおろそかになる。読書は無目的でもよいと思っているけれど、どうも身が入らないのだ。

 

ちょうど締め切りがないと文章を書かないのに似ているのだろうか。この日記もいま電車のなかで書いている。電車は、北に向かっている。

 

本当だったら、人生も終わりが見えていれば、1日1日もっと有意義に過ごせるのかもしれない。危ない目に遭って生還すれば、命の大切さが身にわかるかもしれない。でも、そうしなければいけないと思うことは、それはそれで、貧しいような気もする。無駄だって豊かさの種だろう。

 

私は途中というものが大好きだ。いまという時間は、いつかはこの世から去る途中ではある。それを、のらりくらりできれば楽しんでいきたい。

 

 

「考えが甘い」の「甘い」ってどういうこと?

回数は減ってきたけれど、考えが甘いと言われる。

 

そのときの「甘い」とはどういうことなのか考えてみた。

 

簡単に考えれば、アイデアの実現性が低いと捉えることができる。

 

本質的に考えれば、計画不十分であると解釈できる。

 

計画についての抽象性と具体性の幅(多くは具体性に欠けている)、それから、小さく事前に試行していれば、言われづらくなるんじゃないだろうか。

 

「考えが甘い」と言われると、発想そのものが悪いという気持ちになってしまう。でもどちらかというと計画に具体性がなく、かつ試行もしてなくて確実性も低いという意味で大半は使われている表現に思えてしまう。

 

「考えが甘いこと」は、計画が不十分であると考えていいのではないか。

 

あくまで、オペレーション(実務)の観点の問題なんじゃないの?

 

 

「豊かさ」とは「いんじゃね?」ではないか

幸せになることより、豊かであることを重視している。

 

と、言っても過言ではない。どうなんだろう。

 

まあ、書こう。とにかく、書こう。

 

今回は、豊かさについて考えてみたい。

 

英語で調べると、"wealth"になってくるんだけど、wealthって幸福度指数のときもたしか見た単語だ。幸福と豊かさを今回は分けて考えたいから、除外。

 

「お金がなくても幸せ系」のことも言いたくない。お金はあったほうがよい。

 

思いつくことを適当に書いていく。

 

・毎日楽しいこと

・自分の持っているリソースや自分のまわりの環境を認識

・幸せって気の持ちよう、豊かは違う

・なにをどれくらい認識しているのかで決まる

・自分の可能性

・自分がこれからどう過ごしていくか、少しでもわかっている、わかる方法をわかっている
・手段が多いほうがいいとよくいう、手段を知っていることが豊か

・量・濃さ、認識している情報、物の量が多いほど豊か

・豊かであっても幸せでない、でも不幸せな豊かなほう

 

私の知り合いが言ったことのメモから、結局ほとんどひっぱってきた。

 

私も、幸せかどうかよりは、自覚的に文化的であるかどうかを重視している。(私が豊かだと観測している対象が、仮に無自覚に文化的であったとしても。そこに優劣はない)

 

不満だとか欲望も、出りゃ出たまんまで、よいと思っている。より自由自在になっていくのは楽しい。"Knowledge makes your life easier"って好きな学習態度だ。

 

現時点でいえば、豊かさとは「いろんな存在の仕方が、いんじゃね?で済むこと」かなあと。

 

「許される」でも「受け入れられる」でもない。無秩序を目指そうとか自然状態とはなんぞや!ってもんでもない。

 

「いんじゃね?」くらいの軽い感じまでいかないと、成熟してると言えないんじゃない?

 

「実は、LGBTなんです!」

「いんじゃね?」

 

「実は、発達障害なんです!」

「いんじゃね?」

 

「実は、あなたの跡目は継げません!」

「いんじゃね?」

 

まとめていくと、「存在の仕方の問題において、問題にならない範囲がとても広い様」が豊かさである。

 

最初のほうで言った「手段は多いほうがいい」にもなる。さすが尊敬する知り合いだ。

 

「方法の選択において、問題にならない範囲が広大な様」が、豊かさなんじゃないだろうか。

 

価値判断の基準としては、「方法の選択において、問題にならない範囲の広さ」が広いか狭いかどうかで、貧しいか豊かか決めればいい。

 

まあ、「基準をもつのは自分」である。

 

コミュニケーションはたしかに結果だ。相手の視点を仮説でもって、Before→コミュニケーション→Afterのなかで、Afterを目指すのが人と接することだ。

 

それでも、生きるなかで、価値判断は自分が行うことだ。

 

とりあえず、私はいま豊かさについてはそう思っていると書いておきたい。

 

まあ、だいたい空間における存在のあり方の問題にはなるんだろう。

 

思考の脱力法 -概念にパラメータはあるのか?-

概念にはいろんなパラメータがあるんじゃないかと思っている。

 

「概念とは、言葉(単語)からくるイメージ」と言い換えてもいい。

 

イメージが身体へ影響を与えることはわかりやすい。

 

たとえば、「梅干し」と連想すれば、つばが出てくる。この場合は、「酸っぱい」という概念からつばが出てきていると考える事もできる。

 

つまり、イメージのパラメータに<つばの量>という項目があって、数値としてつばが、設定された量だけ出てくるのではないか。

 

2017年からは脱力していきたい。今後は、頭のなかにある概念のなかにある<緊張>というパラメータを見ていくことにする。

 

私は、「初めて経験すること」について<緊張>のパラメータの値が高いように思う。呼吸が一時的に止まって、身体がこわばる。

 

還元主義的にとらえれば、概念も細かなパラメータの塊なのではないか。<幸福>は100、<憎悪>が10、<義務>が60などいろいろあるはずだ。

 

リンゴが好きだから、リンゴを思い浮かべただけで、私はちょっと幸せになれる。この果実の<幸福>パラメータの値は、他のマイナスな感情の数字よりは大きい。

 

概念は「体験に対して、解釈としての感情を与え続ける」という繰り返しによって、形成される。強固な概念は、信念に似ている。解釈の仕方は、他人の介入があるか自分での判断かは問わない。*1

 

生の牡蠣を3回食べて、3回とも食あたりになった人は、牡蠣に対してさすがによい感情は持ちづらいと私には思える。*2

  

脱力ができれば、いったんは、ニュートラルな方向に戻っていけるのではないか。緊張するのは嫌だから、もっとリラックスできる考え方をしていきたい。

 

概念にくっついている感情を1回バラバラにして綺麗に組み直すことができれば、可能性は高まると思う。

 

思考の一部分を切り取っていうのであれば、思考することは概念を実行することだ。

*1:だいたいの場合、教育において「よいこと」と「悪いこと」が形成される。ここで言えることは、まず、「よいこと」と「悪いこと」がそもそもなんなのかの概念が与えられるということだ。そして、それぞれに対して、<喜び>だとか<義務>だとか<罰>だとかのパラメータが与えられる。よりそれらを細かくするなら、身体の状態に対してさらに影響を与えるものになる。つまり、ひとつの概念のなかに、パラメータとして他の概念が設定されることはあり得る。感情レベルまで概念が具体的になるのであれば、感情は身体へのフィードバックをしやすくなるだろう。ここで疑問になるのは、人間は自分の身体イメージを越えて、自分の身体を操作できるのだろうかということだ。<緊張>の概念を知らなくても、人間の身体は<緊張>することはできる。本人は気づけないとしても。

*2:それでも食べたい人は、レモンを多めにするか牡蠣フライにでもすればいいんじゃないかな。

最後までなにを信じるか

人はそりゃ絶望することはある。そんなときに最後までこれだけは信じようと思っていることはあっただろうか。

 

それも考えて寝たい。

 

あるとするなら、私がどういう状態であろうと、世界は気にせず回り続けるだろうなと思ったことはある。

 

そう思うと、ずいぶんと気が楽になった記憶がある。

 

たいていの絶望は、大事でないことを「これがなかったら死んでしまう」と思いつめるくらいにピントがずれていることから起こる。だいたいのことは気にしすぎなのだ。あまりに単純に言ってしまえば。

 

だからこそ、大切なひとつのものだけ毎日愛せればいいやってもなる。これだけはやりたいということを1つ1つ丁寧に繰り返しいく。

 

性善説を最後まで信じたいなんて言うつもりはない。性善説と性善説がどっちもいつまでも残るんだろうねってなら言えるか。

 

寛容さとはなにかまだわかっていない

電池が切れそうだ。手短に。

 

私はOさんという人に哲学を師事している。大学からの付き合いになるからだいぶ長い。

 

Oさんは寛容さの鏡だ。そもそも、寛容さとはなんなのか。

 

寛容さのなかにルールはあるのか。思い当たらない。

 

許すことは必要そうだ。いくつもの手段がある状態を許すこと。

 

態度として、寛容はもっとも難しいと習った。

 

Oさんにある「Oさんならどんなにピンチな場面でもOさんらしい態度でいるだろう」という信頼はなんなのか。

 

私はそういったものに憧れている。

 

寛容さとは、なにがあっても許すことではないと思う。でも、なにがあっても最後まで信じようとする姿勢のことは当てはまりそう。

 

私にとっていちばん大切なテーマになると思う。寛容さってなんなのだろう?

 

「それは違う」と言えることも知性だしなあ。

 

 

「やる気がない」と判定されるラインはどこから?

私は、いつもやる気がない。

 

でも、「やる気がない」ってどういうことなんだろう。考えてみよう。

 

答えから言うと、「やる気がない」というのは、「ずっとやっていない状態」だと思う。

 

「いつかやります」といくら言おうと、「次回こそは」と述べても、出力がない状態が長く続いたら、それはやる気がない。

 

反対に、「やる気ないんですよねえ」と愚痴りながら、低クオリティの提出をすることは、「やる気がある」の範囲に入る。だって、やってるのだから。

 

才能の話につなげると、やらないまま時間が経っていることに関しては、才能がない。日常生活をおくるなかで、それについて考える時間も割いてないからだ。頭のなかで考えていれば、ちょっとくらいは手から出てくる。

 

デザイナーになりたいと周りに宣言していても、一日のうちでデザインに関わることが1秒もないというのは詐欺だろう。おそらく、やめたほうが前に進める。携帯のなかに1年も使ってないアプリがあるなら、それが削除の対象になるのと一緒だ。

 

変化が必要なときに、いままでやったことがないことに触らないといけないことがある。そんなときも、プロセスは問わず、対象への時間を増やしたほうがいい。関心は、時間をかけているものへ注がれる。自分の生きる世界をデザインしなおしたいなら、時間を割きたいものを編成しなす必要がある。

 

そのときに、「ずっとできてないこと」は、本人にとってやる気がないことなんだから、早めにその勝負から降りるのが賢明だと思う。

 

 

【映画レビュー】それでも俺は飯食うぞ / 『この世界の片隅で』 片渕須直

 

この映画は、食事を中心にまわっている。

 

どんな状況でも、人々はご飯を食べ続ける。

 

空爆が始まる前の平和なひととき、軍港が火の海になったとき、不発弾が爆発したとき、大切な人を失ったとき、原爆の投下地に行ったとき。

 

映画レビューなんだから、失った右手の解釈や、クライドファンディングまわりのことを書けばいいとは思う。

 

でも、私が感じたのは食事の大切さと、「ふつうの人たち」のしぶとさだった。

 

「それでも俺は飯食うぞ」という力強さがあった。

 

『この世界の片隅で』を観ると、自分でご飯を作りたくなる。自炊しないとしても、食事を作ってくれる人に感謝が生まれる。今日、食べるものがあることが、なんだか嬉しくなる。そんなパワーがある映画だ。

 

戦争が是が非かなんて「戦争の存在はFuckである」といっておけばいい。思想的に、右か左かも、食事に割かれているシーンの数・時間から考えたら、そこまでテーマでないのではないか。

 

スミレの味噌汁や、大根とカタバミの和え物。食べてみたくなった。食べれる野草ってたくさんあると知ったから、もうちょっと草むらに詳しくなりたい。

 

豊かさとしぶとさが同居することもあるのだなあと思う。

 

konosekai.jp

 

性格の悪い女性を許していきたい

本当に性格が悪いなあ、という女性に会ったことがない。

 

過去の記憶をむりやり掘り出せばいるのかもしれない。いま、破滅的な人は思い当たらないから、やっぱりそこまでの人はいる気はしない。

 

『東京喰種』という作品を読んだ。物語に出てくるほとんどの女性たちは、なんというか、こう、現実でいたら「完全に電波系だろこいつ」だと思える人たちだ。

 

問題は、彼女たちが自尊心が高くて、自由気ままに振舞っているように見えることだ。気ままに生きている人が好きだから、紙面上だと魅力的に見える。

 

落ち込んだときに、ジャン=リュック・ゴダールの『女は女である』をよく観る。

 

最初に観たのは、高校生のときだ。

 

あれから歳を取っても、考えが変わらない。女性にとって男って、そんなに必要なものなんだろうか。人生の喜びがステーキだとすると、男なんて付け合せのジャガイモくらいな気がする。

 

私のデフォルトの女性像が、賢くてわがままで奔放なせいもあるんだろうか。

 

さすがに、近寄ってくる人間を無差別・自動的に攻撃するような、オンラインゲームの敵モブみたいな人は御免だけれど、「性格が悪い」というのは、評価する人間の価値観によるところも大きい。

 

 すべての女性は、すべての男性にとって「だいたいめんどくさい」可能性はある。

 

それでも、できるかぎり女性には寛容でありたい。

  

ときどき放っておきたいなという意味も含めて、女性には寛容な態度でありたいし、わがままなのって別にそれくらいいんじゃないのって話。

 

フェアだったり、コントロール気性が薄い人だと、相手するのが助かるなあと思う。

 

タイトルは、釣りでした。

 

 

制限の目的は「可能性を左右すること」

いつも私たちはなんらかの制限に囲まれている。

 

地面、重力、寿命、速度。それらには想像力すら、影響を受けている。

 

無重力だったら、自由になれるのか? と考えても、ふわふわと漂い、向かいたいところに向かえないことは、制限を受けているといっていい。

 

意識というのは、物理条件にまず拘束を受けている。

 

身体があるんだから、できないことはできない。望んだからといって、いきなり空を飛んで大気圏を脱出、土星までいっきに着地なんて可能性は、持ち合わせていない。人間がはるか彼方から光の速さでやってきたら、土星の輪を守っている羊飼い衛星もびっくりすること請け合いだ。

 

目に見えないものからも、可能性は握られている。生活のなかでよくあるのは、法律。

 

車は時速60km/hまでが法定速度、原付きはその半分だ。国から罰せられないとしても、クラス30人のなかで「あいつに喧嘩を売ったらヤバイ」だとか、女子同士でかわいい可愛くないのヒエラルキーとグループはある。

 

言いたいことは、ルールには目的があるはずだ。効果を果たしていない法律については早急に廃止されるべきだろう。

 

この世でいちばんルールに満ちている空間は、私たちの頭のなかだ。いらない自分ルールが多すぎる。「それがなかったらどうなりますか?」と自問して、なにも起きないものについては乗り越えていったほうがいい。

 

残念ながら、ほとんどのルールは必要のないものにあたるのだが。

 

 

「頭がいい」の条件 その1

誰だって、他人から「頭がいい」と見られたい気持ちはある。

 

頭がいいってどういうことなんだろう?

 

「素直さ」が、ひとつ、挙げられると思う。

 

素直に人に助けを求めることができれば、日本ではまず死なない。「相手が忙しいかもしれない」という不安があっても、自分の考えが十分にまとまっていなくても、協力依頼に突っ込んでいけることは仕事で大きな成果を生む。

 

生きることに、気後れや不安は、必要ない。

 

素直であることは、生き残りやすさに繋がっているかは断言しづらい。社会的知性という言葉もあるくらいだから。それでも、いざというときに正直でいることは、有効な戦略であり、後悔しない道であると言える。

 

 

信用という言葉について

信用という言葉は、未来において契約が果たされるかどうかの考え方なのだなと思う。

 

信用を得ることは、未来に対して、貯金をしていることに等しい。

 

信用を失うのはいつも現実においてだ。

 

いま、私は遅刻をしている。気持ちの整理のため、電車のなかでこれを書いている。

学習にかかる費用がとにかく安くなった

いまだとオンライン英会話も月6,000円からだ。中国語だと7,000円。

 

プログラミングスクールが1ヶ月の合宿形式で10万円。合気道教室はかかって月1万円。格安で修士が取れる大学も、インターネット上に出てきている。

 

小さなころから考えると、学習にかかるお金が、比べる気も起きないくらい安くなっている。

 

はっきりいってしまえば、学習が好きな人の時代になったと思う。経済面から言えば、学習習慣のない人にはつらい100年になる。スキルアップを伴う学習において、お金が言い訳にならなくなった。図書館とオンラインサービスで、なんとかなってしまう。

 

それでも課題になりつづけるのは、始める精神的なコストなんだと思う。

 

個人において、なにかを始めるのにベストタイミングなんてものはない。

 

始めれたら、ほとんどゴールみたいなもんだろう。

 

 

 

しかし、英語の学習コストは、びっくりするぐらい安くなった。投資対効果がよすぎる。

 

若者のほにゃらら離れとよく言われる。

 

素直な気持ちとしては、都市部に近いところに住んでるなら、200万かけて(ローン組むとそれ以上だ!)車を買うより、200万円分、学習に使ったほうが長く楽しく生きれるんじゃないかな。

 

車は10年で乗り換えるけれど、自分には一生乗れる。この世でいちばん持ち運びがきく資産って、たいていは自分だ。

 

「これで最後だから」というマインドセット

めんどくさいときは「人生でこれやるのも最後だからなあ」と考えることにしている。

 

同じ物事が起こることは、ありえない。生きているなかでのイベントに、それぞれIDを振ったら、確実に数字がずれる。似ていることを、まったく同一のものと捉えすぎなのだ。

 

人間の認識は、たしかに、いくつかの無秩序からパターンを見つけるようにできている。でも、だからといって何にでも既視感を覚えるのもおかしい。相手が人間であるなら、なおさらだ。

 

選択肢からひとつ大事なものを選ぶときも「これが最後の人生だったら、私はなににするだろう?」と考えている。

 

この思考法はちょっとふざけている。私の人生は、なにが起ころうと私にとって最後の人生だ。それでも、こう考えるほうが選びやすいのだから不思議としかいいようがない。

 

事前に、33回死んでようが、100万回死んでようが、私の人生はいつだってこれが最後である。

 

後悔なく生きたいものだ。

 

このブログの名前が"LASTWORDS"なのは「日記の最終更新は、遺書と一緒なんじゃないか?」という想いから来ている。

 

いちおう、「今日が最後の更新だったら」という気構えで書いている。