旬(ピーク)
自分のピークはいつなのかなといつも考える。あるいは、とうに過ぎ去ったものであるのか。
肉体でいえば、本来は18歳あたりが旬なはずだ。でも、20代入ってからハーフマラソンとトライアスロンを完走している。技能面でいっても、英語はいまいちばん話せる。なにかが、おかしい。
10代のころより衰えたのは、時間の使い方かもしれない。特に、文化面で。映画やマンガ、小説は触れなくなった。『やし酒のみ』は昨日ひとの家で読んだけど、やっぱりおもしろいから、他のことに時間を取られているだけな気もする。
衰えたもの。映画、文学、音楽。友達と遊ぶ時間。身近で具体的な他人について考える時間。孤独、暇、退屈。傷つくこと。臆病さ。決死の覚悟。
そこらへんか。微妙。
いまのほうが変化の結果としては好きだ。過去を感傷的にとらえることも嫌いだからまずやらない。
未来のことを考えれば、いまより旬を迎える面もあるのだろう。
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流行り廃りは、もちろん人間にも及ぶ。「年齢ごとにそのときを楽しんでいきたい」というタイプではない。いまは、浴衣きて祭りには行きたくない。水着きて灼熱の浜辺にいきたいわけでもない。図書館のほうが好みだ(まあ、それは10代でも20代でもまったく変わってないか)。
年齢ごとに、というとおそらく社会風俗というよりは、肉体が衰えることによる多数派の振る舞いの変化が大きいのだろう。
私はけっこうそういうものを無視する傾向があるから、そのうち肩身もせまくなっていくのだろうか。
書いていて思うのは、10代のことをそれでも回顧するときはどうしてもあるなあということ。さっきと書いてること違ってきているが。
ほんとに暇で退屈なとき、何も置かれていないフローリングで寝っ転がって、高階からのんびりとした景色を観ているとき、どうしても学生のころを思い出してしまうし、いったいあれはなんだったのだろうと、あのときの気分と考えはなんだったのだろうと、なにかと思ってしまうのである。
文章の理想
人が読んで楽しいと思えるような文章を書いていきたい。
乱暴にいえば、人間の余暇と娯楽のための文章。
明るくなるような文章がいい。私もそういったものを好んで読んできたんだと思う。
肯定とも寛容とも違う、ただの陽気みたいなのでもよい。
私は他人よりだいぶ暇な人生を歩んでいるから、それができるような気が最近するのだ。
物語が起きる余地を予感させることは、人にはいつでも可能性が発生する下地があることを知らせてくれる。
頭のなかのそれぞれの概念はつねに動き続けいて、絶えず関係の更新をやめない。
可能性とは、その人に流れる物語の書き換えのことである。それを示唆してしまうようなことを表現できていけたならと思う。
お金と機嫌
これからお金が以前よりたくさんかかる生活に突入する。
お金では今週はだいぶ悩んだ。もんもんとするのって時間の無駄。しかし、悩みの速度のまま任せていくと、勝手に思考が袋小路に入る。
10億の資産を持つ人がリーマンショックの影響で2億まで減ってしまい、自殺しそうになったと話を聞いたことがある。不安も幸福も、差分からきているのかもしれない。
まだ考え続けれてないとしても、思考の途中に浮かぶことは、「無一文って何?」という疑問だ。「資産0円」とはどういうことなのだろう。
現金をふくめて金融商品をまったくもっていない状態。それは本当に人生のおわりになるのだろうか? なさそうである。人生は、望んでも、自然には簡単には終わってくれないことがほとんどだ。生きることは簡単には終わってくれない。
もしかしたら、それは物語の運動性を関係あるような気もしてきた。この話題についてはまた別の機会にでも書く。
話を戻すとして、まとめていけば、「無一文」の状態で問題がないという解釈にいたれば、少なくとも(収支計画はいつまでも完璧に詰めきれることはないし)資産がまったくないことに恐怖を覚えることはなくなるのではないか。
この場合の無一文とはとても情報っぽい解釈が働いている。「はじめにロゴスありき」レベルのものである。0円になっても、身体はあるし、学んできたものもあるから、始める意志があればいいんじゃないか。文化も人間関係も、お金には換算できるのだし。
不安を覚えるのは、たぶん、お金と「規制」についてだ。お金がないことは、結局は、「アクセスできない」ことに直結する。お金は可能性を左右する。可能性へのアクセス権は、この世界だと2つ大きくある。貨幣と言語だ。
「お金がなければそれにアクセスできない」という現象が怖いのだと思う。そこでお金以外の手段を発生させれてくれるのが知恵であり、教養と呼ばれるものなんだと思う。
タイトルにそってこの記事を終わらせようとするには、なんだろう、機嫌についても触れないといけない。
「お金について機嫌よくなりたい」というところからスタートしているのだ。
こればっかりは、お金について詳しくなるのが早そうだ。お金に詳しい人に聞くと思う。お金とはなんなのだろうね。
値札に書いている価格が「可能性へアクセスすることへの規制」なのは間違いない。意外と、みんな自分の資産については無意識に把握して生きている。自分に自信がないと、美人にはナンパしづらい気がする。
お金で生きることを諦めるってことはやりたくねえなーと思う。それでも物語は続くのだ。
どうすれば機嫌よくあれるか
・美味しいものに囲まれて育つ
・似合う服をたくさん用意する
・知識人と会話する
・たまには速度が出ることをする
・ちゃんと小説も読む 短くても真似して書く
・機嫌の悪い人と一緒にいない
・冷静な人と一緒に育つ
・適度な運動をする
・朝の素晴らしさを体感する
・大きな意味での人(人間)とのつながりに感謝する
・健康の大切さを知る
・ノイズを入れる
・美しさとは何かを忘れない
・歯を大切にする
・お金は人間に使う
・いま喫茶店にいるのだが、頭のうえで鳥が鳴いている つばめ?
始まりは投げやりでよい
カンヌ、ベルリン、ベネチアの国際映画祭で賞をとった天才エミール・クストリッツァは、とある作品のなかで「This is the beginning of beautiful friendship」と何度も言う。
なにかが始まることは、基本的には祝福していきたい。そういう方針だ。
ただ、「なにかを成し遂げたい」、そんな感じのときは、どうも形式的に見栄えがよくならないと開始できないところが、自分の中にある。
やる気がなくても始めれる達人になりたいものだ。メールがまだ何件か書けていない。
退屈の限界
名古屋系の喫茶店のこじんまりとした席で書いている。
退屈だ。いや、やらないといけないことはたくさんあるのだ。それでもだ。
退屈の限界とはなんなのだろうか。臨界点を超えたら、かえって行動に出るような気もする。
腹がふくれたこともこの情勢に貢献している。名古屋系は量がなんでも多い。一回、喫茶マウンテンに行ってみるといい。
「いつでも機嫌がよい」と同じように、「現状を超えた挑戦を続けたとしても、退屈はやってくる」はあり得るのだろうか。
眠くなってきた。食べすぎたことを反省しよう。
手紙を書く仕事がいくつか残っている。手紙を書くのはいつもめんどうだ。楽しいことはたいていめんどくさい。
才能とその運用について
顔と中身は一致するのだろうかとよく考える。顔が怖い人は、他者から恐れられるような内面を持っているのだろうか。確率はどれくらいなんだろう。
「美人は性格が悪い」と人類で言い出したのは、おそらく美人でない方々だろうから、まあ、それは置いておいて。
近いところで、10年以上、考えていることがある。才能があった場合にそれは必ず運用されないといけないのだろうか。
前提として、才能がある場合は、それで飯が食えるなら、続けていきたいと本人が思うこととする。
問題は、才能があって、飯が食えていたとして、本人がその分野にやる気がない場合である。つまり、資産を自覚しているけれど、運用する気がないケース。
テレビで流行った「美人すぎる~シリーズ」は「美人であるのならば、もっと他の活かし方でもよかったんじゃねえの」という意味を部分的には含んでいる。
バスケの神様、マイケル・ジョーダンは途中から野球を始めた。どう考えてもバスケの神様はバスケをやってたほうが稼げるし、能力を最大限つかえているのにだ。
世の中には想像以上に才能がある人たちがたくさんいて、日常でも気をつけて見ているとびっくりすることがよくある。
個人的にいちばん多いのは、頭が信じられないくらいいいのに、それに自覚的でない人たち。「私は馬鹿なので」と本当に自信がなさそうに言うのを見ているとなんとも表現しづらい気持ちになる。
話があきらかに脱線し始めている。無理にまとめる気もないとしても、書いていけば、結局は運用の方法なんて本人が決めたいように決めればいい。
たぶん、そこにある一種の不合理性を私が消化できてないだけだ。どうも心のどこかで不経済を感じてしまっている。
資産の運用の仕方なんて本人の問題だ。ただ、見ているともったいねえなあと感じることが多々あるから、書いておきたかったのだと思う。そこに豊かさや自由があるのもわかってはいるのだ。可能性も。
映画『ガタカ』のように、遺伝子の研究が進んで、出生前に病気のリスクやあらゆる才能が予測できたとしても、それでも人は自らの資産の運用方法をわがままに決めるんだろう。
いちおう、病気のリスクくらいなら最近はわかるようになってきているらしい。データ、合理性、経済性に人間がどこまで従うのかは気になり続ける。
背が高ければ、バスケの適正はあるていどは高いといえる。でも、別にバスケをやる必要はない。足の早い人は、走ったほうがいいのか。頭がいい人は、頭を使ったほうが幸せになれる?
おそらく、これはサンクコストの話のように思えてきた。可能性のサンクコストだ。背が高い人がバスケを選ばなかったとしても、背は縮まない。バスケの可能性を試せなかっただけである。それが選択というものか。そこにおいての意思と呼ばれるものは、なんなのだろう。
そこらへんで筆を置いておきたい。
普段の荷物は多く、貯蔵は少なく
ノートパソコンの充電が終わるまでに書く。
目の前にあるものを取り扱うことで限界だから、ふだん身の回りにないもには触れることがない。つまり、管理の範疇に入っていない。
失せ物も多いせいで、手ぶらで外出することはない。軽い用事で出かけるときでさえ、40Lのデイバッグを背負って家のドアを開ける。
自然と、デイバッグのなかに入っていないものは取り扱わなくなる。本も、机のうえに置いてあるものしか読まなくなる。
本棚は貯蔵のためにある。移動することの多い人生だから、いい加減、本を捨てようと思う。同様に服も。
日常生活で使う範囲のものはすべてデイバッグに詰めておいて、普段の貯蔵は簡素なほうがいいなと気づいたのだ。管理できない範囲で貯蔵をしておいても仕方ない。気づいているものしか取り扱うことができないからだ。
生きるうえでいちばん大切な、という前提
お世話になっている方の講義に呼ばれた。大学2年生の前で5分ほど話をした。
以前から私は「自分より年下の人たちに、アドバイスすることなど、まったくなにもない」と主張し続けている。
それでも、無茶振りというせっかくのご好意を無駄にするわけにもいかないから、無理やりなにかしら喋ってみようと思ったのだ。
正直なところ、生きるうえで大切なことは、前提として、存在しない。誰が決めるのだ、そんなもの。
信じたいものは、自分で決めてください。
だから、「生きるうえでいちばん大切なことは、自分にとって大切なことを自分で決めれるようになることです」と大声で言った。
勉強を続けていく意味(価値)は、ひとつはそこにある。価値観の種類も増えるだろうし、増えれば、真実と感じられるものが複数でてもくるだろう。
そんなときに、大切なものは、自分で決めれるようになっておいたほうが、なにかと健康的だよということ。
誰かしらのアドバイスを聞いたとしても、誰かしらに決めてもらったとしても、それを実行している自分は最後まで存在するから。
↓けっこう近いことを言っている
天気の熱帯
暑い日が続いて素晴らしい。
天気の話をすると、好きなのはうだるような暑い日だ。洗濯物がよく乾くような日差しの強い天候。
好みや人格は、高校生のときに触れたものからの影響が強くて、ガルシア=マルケスの『わが悲しき娼婦たちの思い出』のラストシーン、主人公と昔の女性が海を眺めながら農場で語り合う場面の蒸し暑さは心に残っている。
たぶん、熱帯に憧れがあるんだと思う。
いまは手元にないから引用できないとしても、いつかここに書いておきたい。それくらい印象的な会話なのだ。ああいう女性と自分も何度も会ってみたい。
まだ蒸し暑い日が続いてほしい。天気がよいということは、私にとっては、馬鹿みたいに晴れている日。
現状の整理(2017年05月19日)
【ざっと書く】
・英語の勉強がだるい
・海外にはたぶんいけることになった
・明日またテスト
・勉強してない、いや、してはいるが不十分
・書く場所が欲しい、英語を
・習慣を変えていかないといけない?
・美しい文章が書けるようになりたい
【怒りのポイント】
・ないと言えば、ない
・英語の鍛錬が本気で怖いくらい
・現状に腹が立っている?
・もっと自由を構築していきたい
・自由とは?
・コミュニケーションで困りたくない
【方針】
・コミュニケーションを軸にして試しに動いてみる
・象徴性を無視して、もっと事実について考えたい
・それでも、物語性は大切
・お金をかけずに人と接するにはどういう点、方法があるだろう?
・意外と、いろんな人に私を知ってほしいという欲求もあるのかも
【最後に】
収拾がつかなくてもよい、やり残したことを考えるのは愚考で、未来を考えたほうが100倍マシ
「もう生きてはいけない」と「いますぐ死ぬことはない」は何が違うのか
頻度高く絶望をするので、もう生きてはいけないのではないかと思うことがある。ただの感覚だけの問題ではある。小さいころからショックを受けるとそんな気分に良くなっていた。
一方で、ここでなら生きていけるな、いますぐ死ぬことは絶対にないな、と思うこともある。
両者の違いについて考えていきたい。
原因について話そう。
もう生きてはいけないのではないかという感覚は、本質的には「他人とうまくやっていく自信のなさ」からきている。
いますぐ死ぬことはないという確信は、「他人と交渉をすることができる余地があること」からきている。
第一に、感覚として、他人を拒絶し始めるのは私からだ。取りつく島もないと諦めるのはいつも自分からなんだろう。
ドイツのことわざに「にもかかわらず笑うのがユーモアである」とある。『モモ』を書き残したミヒャエル・エンデは「にもかかわらずというところに希望がある」と『オリーブの森で語り合う』で発言をしている。
他人に関して期待しないことは大切だ。コミュニケーションが苦手な人には特に。
しかし、会話をするだとか、他人になんらかの形で「アクセスすること」を忘れないようにありたいと思う。
曇りの日に出かける
目標は達成できた。あとは、後処理。
昨日や一昨日と違って、今日は天気がよくなかった。曇りだ。外に出たら風も強く、湿度も高い。雲もいやな感じだった。すぐに降り出すように見えた。
ここのところ、気を張りっぱなしだった。リラックスする時間が作りたくて、喫茶店を探して歩いたけれど、見つからず。近所のパン屋でメロンパンとコロッケパンを買い、少し移動して公園でのんびりすることにした。隣接する野球場では、スポーツ少年団がノックの練習をしている。ベンチで食べていたら、目の前を柴犬の散歩をしているおじさんが通り過ぎる。年老いた様子の犬を目で追っていたら思わず笑みがこぼれた。
影を作っている初夏の木々は、風に吹かれてゆさゆさとゆれている。気温も出かける前よりは心地いい。コロッケパンの油と刻まれたキャベツのバランスがよく、足をだらりと伸ばしこうやって過ごす時間が幸せと呼びたいものなんだろう。忘れないでおこうと思った。
天気がまた崩れてきたため帰宅。チャーハンをまた食べて眠くなったから昼寝をした。起きたら土砂降りの雨だった。束の間の幸福だったのだ。必要だと思って作った時間だったから、それでよいのではあるが。
雨が振りそうだとしても、出かけたいなら私は出かける。降ってきたならすぐ帰ればいい。勇気も頭脳もいらない。ただ、出かけたいなと思うだけだ。インドア派とアウトドア派が世間にはいる。人間はどちらのほうが多いのか。刑務所が世間的に嫌なイメージを持たれているのだから、幽閉は人間には向いてなさそうではある。
創造的絶望を創造的に創造する
またうまく書けていない。じょうずに書こうとするから書けない。だらだらと書いていいのをよく忘れる。誰からも特に期待されているわけではない。批評の目がいちばん厳しいのは自分だったりする。
絶望すればふんばって先に行きやすい。いまは近いところに絶望が見当たりしない。絶望が見つからないことを絶望とすればいいのではないかと思い浮かんだ。よくわからないけれどそういうアイデアがひらめいた。
心理的抵抗はつねにあり続ける。ないとよくわからない。時間をゆっくり流す感覚でまた白い画面と向き合えばそのうち書けもする。そういうときはなんだか浜辺でいったりきたりする波を眺めている心境になる。波はそれぞれ個別なのか。すべて一緒の動きをするわけがない。ひとつひとつにIDを振れたらいいのになとぼーっとしながら思う。海という生態系で波は個体ごとに重複がないものなのか?