「全体」という言葉について
「全体」を、なるべく疑うようにしている。
状況によって、人によって、意味するところがズレるからだ。
政治家にとっては、マスコミを警戒して帳簿の見直しを行った故郷の選挙事務所かもしれないし、裏切り者が出て急いで身の振り方を考えなければならない名のある政党かもしれない。
天文学者とっては、「4月に生まれたから」という理由で季節の名前がついた娘のいる暖かな家庭かもしれないし、いまなお無限の拡大を続ける彼が愛する銀河系かもしれない。
だから、全体と言葉が出たときには、自分と相手とで、それぞれ意味の階層が違う可能性がある。73億もいるこの世界の住人たちで異なっていることだってありえる。
誰がが「全体」を説くとき、受け手は相手の「全体」を想像する。でも、それはこの世の真理ではない。相手の、ただの頭のなかでの事柄だ。
日常で接する「全体」とは、必ず誰かしらの元から生まれたものである。
弊社、我々、この国、うちのクラス、僕たち、私たち。
目前にしたとき「これは一体、誰が考えた全体だろう?」と思いをめぐらす。