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生きてはいけないという感覚

言葉について考える

また自転車の調整をしてもらった。トライアスロン、本当に出る準備をしている。今年中には1回走る予定。太宰治の麻の着物じゃないけど、未来に予定があることに励まされることもある。筆頭は、音楽のライブチケット。楽しみに待つということは、幸福以外のなにものでもない。

 

小学生のころ、「目をつぶった瞬間に20才くらい一気に歳を取ってないかな。その間の記憶は一切思い出せないとして」という遊びをよく授業中の暇つぶしにしていた。

 

ある朝、目を覚ますといきなり80才になる話でもいい。洋服に着替えて、電車に乗って町に出る。老い先は短いが、私のことを誰も知る人はいない。私はそこで新しい人生を始める。そんなことを考えていた。

 

気を抜くと生きている感覚を忘れる。生きているってなんだっけ?となる。生きていけるのかと不安になることもある。

 

将来に対する不安は、誰でも何度かは覚えがあると思う。でも、この種類の不安で、気分を悪くする必要もないのではないか。「生きていけないという感覚のままで居続けること」を、人間は実は行っていない。すぐに行動に出たり、さらにネガティブな感情を引き起こしたりする。

 

生きてはいけない不安→(だから)→自らを粗末にする

 

生きてはいけない不安→(だから)→明日に絶望する 

 

というパターンをいくつか見てきたし、小さいころはそういう経験もあったから、ここでさらに考えていくと、「不安だから」は理由になってないと思う。ただ不安な状態をキープできないだけなのではないか。

 

不安なままでいることができる能力をネガティブケイパビリティという。正確には、「はっきりしないあやふやな状態を、理解しないまま解決しないまま維持しとどまり続けることができる能力」。

 

生きてはいけないという不安にとどまり続けてみると、どう考えても、<だから>という順接でいつも思考が飛躍していることがわかる。不安とははっきりしない不明瞭の極地だ。そこにいることは辛いけど、とどまっていても何も起こるわけではない。

 

生きていけるかわからないなら、わからないままでそのまま生きてみるのもいいんじゃないかと思っている。

 

 不安という感情には弱点があって、じぃっと見つめ続けるとそれだけで霧散してしまう。生きてはいけない感覚があるからといって、だからなんだというのだ? 暗く見える海だって入ってみれば温かいかもしれないじゃないか。