【映画レビュー】HAPPY ENDから見る喪失しない新海誠 / 新海誠『君の名は。』
新海作品の本質は<断絶>だ。
特に、距離と記憶の2つ。
『君の名は。』では、この2という数字が重要になる。
今作では、全体を通して「2つのものが1つになる」というテーマが貫かれている。
話を戻そう。新海監督の根本にあるのは<断絶>である。
どの作品でも「距離もしくは記憶の補完が、ラストシーンまで決してなされない」のである。新海作品のルールといってもいい。
・『ほしのこえ』では、長峰 美加子と寺尾 昇は記憶の共有をしているが、目に見える形で2人が再会することは最後までない。(距離の断絶、記憶の補完)
・『雲のむこう、約束の場所』では、藤沢 浩紀は沢渡 佐由理と再会して終わるが、沢渡 佐由理のもうひとつの世界の記憶は戻らない。(距離の補完、記憶の断絶)
・『言の葉の庭』では、秋月 孝雄と雪野 百香里は記憶は共有しているが、映像では最後離れ離れになっている。(距離の断絶、記憶の補完)
しかし、今作では、立花 瀧と水守 三葉は最後に再会をしている。2人が話し合うことも含めると、その場で記憶も共有することになる。そう可能性が示されている。『秒速5センチメートル』だったら確実に話かけないですれ違っているというのに。
『君の名は。』のラストは事件なのだ。
なぜこのようなことが起こるかというと、今作のテーマである「2つのものが1つになる」が大きいのではないかと思う。
水守家の歴史が想起されるところでは、三葉と四葉の誕生からいままでが描かれるが、遺伝子情報が書き込まれているDNAの構造は2重らせんである。2本の鎖がお互いを補うように絡まっているのだ。ちょうど、Nature誌にDNAの形状を発表した研究者もワトソンとクリックという2人だった(さすがにこれはできすぎだけれども)。
新海作品では、バイオリンや携帯電話、靴などのツールがひとつの示唆になっていることがある。
水守家に代々伝わっているひもは、<結>としてのひとつの象徴なのだ。<断絶>を打ち消すのは<結>にほかならない。補完なのだ。作中では三葉は髪を編んでるシーンもあるし、四葉は髪をツインテールにして縛っている(ゴムの色は赤と青で分かれている)。
三葉が噛んで発酵させた酒を、瀧が自らの身体に取り入れることも、片割れどきで補完がされるのも今回のテーマが<結>だからに他ならない。おそらく、記憶と距離の<断絶>が両方ともラストまで示されないのは、新海作品のなかでも今作だけなのではないだろうか。
そういった意味で今回は衝撃をうけた。「最後別れないのかよ!」って映画館の座席でツッコミをいれたほどである。階段でお互いを確認したときなんてガッツポーズして「よーし!そのまま離れ離れになれー!なれー!」と自分でも意味のわからないことを心のなかで言っていたのに。そのまま話しかけるなんてびっくりした。「新海作品じゃなくね!?」とまで思いエンドロールで呆然としていた。
新海作品を観始めて10年になる。初めて観たのは渋谷の小さな単館系の映画館だった。衝撃を受けて、大学選びも新海がいた大学を受験したほどだ。そして、たぶん今作のような形で新海作品でびっくりすることは二度とないんじゃないだろうか。
最後に言っておきたいことは、新海は「ポスト宮﨑駿」と呼ばれて久しいが、実は『君の名は。』で『天空の城ラピュタ』の興行収入をすでに抜いている*1。ラピュタはジブリワーストとはいえ11億円だ*2。今作ではすでに12億円を超えている。どこまでいくかワクワクしている。
最近は『雲のむこう、約束の場所』のときの感傷的な感じ、喪失した感じはなくなってきていると思う。雲の向こうなんて最初のモノローグから「失っている感じ」ばりばりだった。
隕石の事故は、やっぱり3.11を彷彿とさせる。そこに新海は、「今作のような形があったら」とひとつの希望を見たのではないだろうか。住民が一丸となって危機に対処する展開に<結>を当てたのであろうし、三葉と父との協力からそれは始まっている。
新海作品に流れる<断絶>を、3.11の<結>が補完したのであれば、おそらく今回のストーリー展開はこれ限りである。でも、なぜかそんな気がしない。今後もHAPPY ENDの喪失しない新海誠になっていくのではないか。
変化に、寂しさはある。『君の名は。』のなかに新海特有の喪失感があるとすれば、それは作風の変化そのものにあるのかもしれない。