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「使命感」って気のせいなんじゃないか?

言葉について考える

歳を取るにつれ、こだわりもなくなってきた。

 

「意識高い系の学生は、その後10年どういう人生を歩むのか?」みたいなのには興味があって(私は意識低すぎて床の下にめり込んでるくらいの学生だった)、給料の高いところに勤めれば、30歳になる前にマンション買えちゃう人とかいる。昔だったら圧倒されていたと思う。でも最近は、もう他人だって私だって突き詰めれば趣味で生きてると捉えられるようになってきた。分けれるようになってきたというか。

 

「趣味」という言葉を具体的にしていくと、好みや思想のことであり、人は最後のところでは自己満足にいきつくのではないか。

 

以前Twitterで見たと思う。国境なき医師団の方が、とある講演で「それでも、人助けしたいという自分がいて、それが自己満足だということを忘れてはいけない」とおっしゃっていたそうだ。(間違ってたらごめんなさい)

 

職業に貴賎はないと言うつもりはない。崇高に思われる仕事でも、そうでない仕事でもなんでもいい。それが行いたいという欲求を抱えている自分がいることを忘れてはいけないんじゃないか。

 

「社会のために」って思っていたとしても、「社会のためにと尽くしたい自分がいること」を意識していたほうがいいのではということだ。

 

私やあなたが、仮に、善性や神性の代弁者だったとしても、「代弁を行いたかった自分」からは逃げられない。

 

じゃあ、義務感や使命感はなんなのだということになる。私は、「それは気のせい」だと言ってしまいたい。ヒューリスティックな観点からすれば、確信は、その個人においては確実性が高い。それでも、他人から見たら意味わかんないときがある。いくらひらめき直感タイプの起業家でも、事業の説明は「WHY」から始めないといけない。「電波が届いた」といった表現をしているのは猪子寿之氏しか見たことがない。

 

こう書いているとわかるんだけれど、「使命感」は、他者に説明するための言葉なのと同時に、ストーリーを呼び起こす単語でもある。なぜかというと、もともとの「使命感にあたる何か」は、勘や感覚に近いものだからだ。そこまで理性的なものではないと思う。「やらなければ」といった気持ちも、自分か誰かが作った、物語にのっかっているだけなんじゃないのか。