制限の目的は「可能性を左右すること」

いつも私たちはなんらかの制限に囲まれている。

 

地面、重力、寿命、速度。それらには想像力すら、影響を受けている。

 

無重力だったら、自由になれるのか? と考えても、ふわふわと漂い、向かいたいところに向かえないことは、制限を受けているといっていい。

 

意識というのは、物理条件にまず拘束を受けている。

 

身体があるんだから、できないことはできない。望んだからといって、いきなり空を飛んで大気圏を脱出、土星までいっきに着地なんて可能性は、持ち合わせていない。人間がはるか彼方から光の速さでやってきたら、土星の輪を守っている羊飼い衛星もびっくりすること請け合いだ。

 

目に見えないものからも、可能性は握られている。生活のなかでよくあるのは、法律。

 

車は時速60km/hまでが法定速度、原付きはその半分だ。国から罰せられないとしても、クラス30人のなかで「あいつに喧嘩を売ったらヤバイ」だとか、女子同士でかわいい可愛くないのヒエラルキーとグループはある。

 

言いたいことは、ルールには目的があるはずだ。効果を果たしていない法律については早急に廃止されるべきだろう。

 

この世でいちばんルールに満ちている空間は、私たちの頭のなかだ。いらない自分ルールが多すぎる。「それがなかったらどうなりますか?」と自問して、なにも起きないものについては乗り越えていったほうがいい。

 

残念ながら、ほとんどのルールは必要のないものにあたるのだが。