「豊かさ」とは「いんじゃね?」ではないか
幸せになることより、豊かであることを重視している。
と、言っても過言ではない。どうなんだろう。
まあ、書こう。とにかく、書こう。
今回は、豊かさについて考えてみたい。
英語で調べると、"wealth"になってくるんだけど、wealthって幸福度指数のときもたしか見た単語だ。幸福と豊かさを今回は分けて考えたいから、除外。
「お金がなくても幸せ系」のことも言いたくない。お金はあったほうがよい。
思いつくことを適当に書いていく。
・毎日楽しいこと
・自分の持っているリソースや自分のまわりの環境を認識
・幸せって気の持ちよう、豊かは違う
・なにをどれくらい認識しているのかで決まる
・自分の可能性
・自分がこれからどう過ごしていくか、少しでもわかっている、わかる方法をわかっている
・手段が多いほうがいいとよくいう、手段を知っていることが豊か
・量・濃さ、認識している情報、物の量が多いほど豊か
・豊かであっても幸せでない、でも不幸せな豊かなほう
私の知り合いが言ったことのメモから、結局ほとんどひっぱってきた。
私も、幸せかどうかよりは、自覚的に文化的であるかどうかを重視している。(私が豊かだと観測している対象が、仮に無自覚に文化的であったとしても。そこに優劣はない)
不満だとか欲望も、出りゃ出たまんまで、よいと思っている。より自由自在になっていくのは楽しい。"Knowledge makes your life easier"って好きな学習態度だ。
現時点でいえば、豊かさとは「いろんな存在の仕方が、いんじゃね?で済むこと」かなあと。
「許される」でも「受け入れられる」でもない。無秩序を目指そうとか自然状態とはなんぞや!ってもんでもない。
「いんじゃね?」くらいの軽い感じまでいかないと、成熟してると言えないんじゃない?
「実は、LGBTなんです!」
「いんじゃね?」
「実は、発達障害なんです!」
「いんじゃね?」
「実は、あなたの跡目は継げません!」
「いんじゃね?」
まとめていくと、「存在の仕方の問題において、問題にならない範囲がとても広い様」が豊かさである。
最初のほうで言った「手段は多いほうがいい」にもなる。さすが尊敬する知り合いだ。
「方法の選択において、問題にならない範囲が広大な様」が、豊かさなんじゃないだろうか。
価値判断の基準としては、「方法の選択において、問題にならない範囲の広さ」が広いか狭いかどうかで、貧しいか豊かか決めればいい。
まあ、「基準をもつのは自分」である。
コミュニケーションはたしかに結果だ。相手の視点を仮説でもって、Before→コミュニケーション→Afterのなかで、Afterを目指すのが人と接することだ。
それでも、生きるなかで、価値判断は自分が行うことだ。
とりあえず、私はいま豊かさについてはそう思っていると書いておきたい。
まあ、だいたい空間における存在のあり方の問題にはなるんだろう。