途中の楽しみ

集中できるときは、きまってなにかしらの途中だ。

 

授業の最中がいちばん熱中できる。授業とは、家に帰るまでの途中だ。短くとらえれば、授業の終わりが見えているからこそ、間に浮いてる時間に集中できるとも言える。

 

古本屋で掘り出し物を探しているときも、友達の家でマンガを読んでいるときも、サンディエゴ行きの飛行機に乗っているときも、打ち込めるのは「終わりある時間」が見えているからだと思う。

 

無限に許可をされていると、やらない。図書館で一度に10冊借りたときなんか、1冊1冊にとてもおろそかになる。読書は無目的でもよいと思っているけれど、どうも身が入らないのだ。

 

ちょうど締め切りがないと文章を書かないのに似ているのだろうか。この日記もいま電車のなかで書いている。電車は、北に向かっている。

 

本当だったら、人生も終わりが見えていれば、1日1日もっと有意義に過ごせるのかもしれない。危ない目に遭って生還すれば、命の大切さが身にわかるかもしれない。でも、そうしなければいけないと思うことは、それはそれで、貧しいような気もする。無駄だって豊かさの種だろう。

 

私は途中というものが大好きだ。いまという時間は、いつかはこの世から去る途中ではある。それを、のらりくらりできれば楽しんでいきたい。