死ぬ前から葬儀について

江戸時代に活躍した国学者の本居宣長は、自らの葬儀において、棺桶の運び方まで生前から書いておいたらしい。それに倣うわけではないにしろ、そこまで細かくではないにしろ、自分の葬式について希望することをここに書こうと思う。

 

「いい歳して」という表現は、発言者の観点によるものだ。80歳の祖母からすれば、私はまだまだ若い。しかし、女子高生の従姉妹から見れば、私もいい歳にはなっている。私が死んだときに、応対する人が困らないようにいまからしておくことは、不自然なことではないだろう。

 

希望することはとりあえず2つ。

 

 

1.お金はかけてほしくない(喪主向け)

 

死んだ人間にお金をかけるよりは、生きている人間が、生を謳歌することに使ってほしい。N回忌で皆が集まって、まったりと飲むビールは美味しい。葬儀は簡素なものにして、院号とかもなんでもいいので、そこで節約した分を、食事の内容を豪華にするなどに用立ててくれるとありがたい。できるかぎり、葬儀に参加した人にお金が還元されるようにしてください。

 

墓はどこに入るかわからないとして、死んだときの法律が許すのであれば、海に骨を撒いていただけると助かります。海で育った身なので、骨も海にかえすのが筋が通っている気がします。

 

 

2.いい機会にしていただきたい(参加者向け)

 

モダン・ジャズの帝王マイルス・デイヴィスは、自伝にてこう言っていたと聞く。

 

「俺の演奏を聴いた後、うっとりしたカップルが、そのままベッドインしてくれりゃそれでいいんだ」

 

さすがに葬式でうっとりする人はいないだろうが、うまく、なにかしらのよい機会にしてほしい。行きたかったところに行くとか、気になっている子をデートに誘うとか、普段なら気兼ねがあってできなかったことの、気分転換にぜひともしていただきたい。

 

 

死についてはまた別の機会に書くけども、言いたいのは「死はなにかのきっかけになっている」ということだ。

 

 家族が病気で倒れて、集中治療室からなかなか出てこなかった時期を、私も経験している。ある日、家族がいつも座っている椅子が空白になっているのをじっと見た。なぜだかわからないがじっと見ていた。そのとき「なんか、新しいなあ」と感じたことを、家族が病院から帰ってきてからも、よく思い出す。

 

死は常に新しいみたいだ。存在の逝去は、空白を生み、空白は新たに始まりを生む。

 

というわけで、もしも私が死んでしまったら、新しくなにかを始めるきっかけにしてくれると嬉しいです。天国でバドワイザー片手に、馬鹿な酔っぱらいも喜ぶんじゃないかなと思います。