書くことは豊かなのだが説明するのが難しい

書く時間は間違いなく豊かだ。ただ、説明するのが難しい。

 

真っ白な猫がベッドのうえで、うとうとして眠りに落ちそうになっている。日向ぼっこの途中で、気持ちよくなってきたからだろう。頭を撫でると目を細めて喉を鳴らす。なんだか気が抜けてこちらまで和む。

 

いま目の前で起きていることを書いているだけで、よい現実逃避ができている気になる。

 

重視したいのは、可能性を感じることで、これを諦めてしまったらひとつの人間の死だと思う。無知の知は、知らないことがたくさん広がっていることを世界観に感じさせてくれる。

 

可能性を信じることは、豊かさを感じることとかなり近い。「存在のあり方の種類において問題とならない範囲が広いこと」と、「未来にありうる事象の種類が豊富であると予感できること」が似ているからだと思う。

 

それらにおいて、書くことは相関性が高いはずだ。でも、それがうまく説明できない。たぶん、書いている途中は、書いていることによって、何が起こるかわからないという戦いに打ち勝ちたいだけなのかもしれない。

 

読者の存在も、可能性を感じることに寄与しているはずなのだけれど、違う方面から考えたい。問いを立てるとするならば、なぜ書いている途中に豊かさを感じるのだろうということ。それがわからない。下手をすると、「届く可能性」について感じているのかもしれない。その場合、読者のことに関する問題になる。

 

書いてよい範囲が広大であるから豊かさを感じるのであれば、表現における自由さから感覚を得ていることになる。