一段落とは主観的なものである

ひとまず山は超えた。たぶん。

 

「一段落ついた」と気持ちがなるのは、まったくの主観での一区切りだとわかった。

 

終わりというのはいつでも人工的なものだ。生理学的な死くらいなんじゃないか。自然に感じれるのは。

 

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自転車でコンビニを往復するときに、自分の臆病さ、弱さが身にしみてきて涙が出てきた。怖いことばっかりである。

 

ふがいなさを感じることは、「無知の知」に結構ちかい。ちょうど武術を学ぶときにどれだけ自分が至っていないかを学ぶことが学習進歩のキーであるように。

 

ゲームが上達しやすい人の特徴についてもそれは言えて、大切なことになるのは「自分の実力が正確に把握できていること」だ。強力な勝利の原動力になりえる。自分の身の丈がわかっていれば作戦も立てやすく、勝ちやすくなるかはわからないけれど負けづらくはなる。勝負として相手からしたらとても手強くなる。

 

自分がどれくらい弱くてどれくらい強いかを感覚としてもてるような人は、だいたい他分野(違うゲーム)で突き詰めた経験を持つ人だ。上級者同士の戦いになると、力量がたいして変わらなくなるから往々にして高度な心理戦となる。その際に重要になるのが「自分がどのような戦力か」を精密に知れているかどうかなのだ。

 

最強である必要は必ずしもない。自分の価値のなさ、強みが発揮できる場面などを理解していれてれば十分。狙いが戦いのなかで持てることは勝敗にあたりまえのことだけれど直結する。

 

そんなことを考えていた。まあ、そういう意味では私はすごく、弱い。

 

風も強い日だったから、散り始めた桜が道の上で渦を作っていて、そのなかを時速16kmで走り抜けていく。今年の花見はこれでいいやという気分になった。