始まりに統合感などない
以前にも書いた。
より感覚を書いていくと、たぶん、はじまりには破綻感覚も統合感も存在しない。現状の外から来て気づいたら目の前にあるもの、そして瞬きをしたら過ぎ去っているもの、表現としてはそちらのほうが近い。
なにが正しいかなんてわからないし、何が間違ってるかなんて事前にはわかるわけがない。それくらいが「現状の外」ということなのだと思う。
始まるときに「あとから辻褄が合うだろう」なんて考えるのは傲慢なのではないか。
以前にも書いた。
より感覚を書いていくと、たぶん、はじまりには破綻感覚も統合感も存在しない。現状の外から来て気づいたら目の前にあるもの、そして瞬きをしたら過ぎ去っているもの、表現としてはそちらのほうが近い。
なにが正しいかなんてわからないし、何が間違ってるかなんて事前にはわかるわけがない。それくらいが「現状の外」ということなのだと思う。
始まるときに「あとから辻褄が合うだろう」なんて考えるのは傲慢なのではないか。