生活のなかのちょうどよさ

生きることに求めていることって中学生のときと変わったのだろうか。

 

いまは英語でほとんど暮らしている。ふと、バス停で歌っていた鼻歌が合唱祭のときの曲だったりする。(あと、なぜか槇原敬之)

 

まわりとうまく付き合っていったりかき乱されたりしながら、日本のころとは違うペースで毎日を生きている。ユートピアだとか、甘えているだとか、モラトリアムだとか、ここではないどこかとか、現実逃避だとか、食費だとか。そんな言葉をたまに考える。

 

理想を目指して生きているというよりは、私はとにかく嫌なところから逃げている気がする。それでいいんだけど。

 

たぶんいまは生活のなかのちょうどよさみたいなのを求めている。そんなものは味わえてもすぐに消えてしまうものであって、流動的という表現よりはむしろ一瞬の気持ちがよい霧のようなものにも思える。