連続性と返報性、恐怖が連続することによる恐怖について

精神についての本質のひとつとして、連続性と返報性がある。どちらもとても大事。(いま、この記事を書いている間に、職人さんが私の部屋のドアの修理を行っていて、それが丁寧な仕事でとてもおもしろい)

 

連続性とは、同じことが続くだろうと勝手に予想し始めることにつながる。厄日ってとらえると嫌なことしか目に入ってこなくなる。

 

返報性とは、「AならばB」に関して、自己に対する強迫性がつよくなることにつながる。言葉を変えれば、アンカリング。これについては、よくもわるくも日常的に私たちは繰り返している。教育だって返報性によるものだ(1+1=2)。社会性が高いかどうかは「より大多数の"AならばB"に合わせれるか」になる。広範囲に定着したものを、文化と呼ぶ。

 

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最近は、現状の外にしかいない。(今日も部屋の外では建物のリフォームが行われている。いつ終わるのだろう? ツッコミどころありすぎてツッコミを入れるのを最早やめた)

 

連続性の話になるけれど、恐怖や不安が続いてくると、明日もそれが続くのではないかと予感するようになる。

 

恐怖について連続性を感じるようになることは、辛い。

 

現状の外にいたら、過去の経験をもとにした予測はそこまで確度高くならない。だから最近は流れるように生きている。綺麗な景色が出てきたらそのときは大切にしたいくらい。