「頭がわるい」の個人的な定義

「ユーモアの介在する余地がいっさいない」ということを、いちばん頭がわるいということにしたい。

 

私のまわりは頭がよい人でいっぱいです。

 

 

惰性と慣性

行為を続けていれば頭は慣性みたいにその計算をずっと続けるようになる。

 

将棋を数局やって、何度か負けると、熱くなって(Tiltして)、どうやったら勝てたかなと考え出していまい、その日は将棋の演算で頭がいっぱいになる。他の行動のクオリティはすべて落ちる。

 

優先順位からして、いちばんでないことに演算のエネルギーを費やすことは、惰性だって言い切ってしまっていいと思う。エネルギーとは注意が払われるところに注がれる。

 

だから、惰性って習慣のことなのだ。一瞬の惰性なんてないのだから。その行為が続いて、慣性がついて”止まらなくなって”しまったら、惰性なんだろう。急に止めるには、だから、それはそれでエネルギーがいる。

 

というわけで今日も論文読みましょう。

 

 

連続性と返報性、恐怖が連続することによる恐怖について

精神についての本質のひとつとして、連続性と返報性がある。どちらもとても大事。(いま、この記事を書いている間に、職人さんが私の部屋のドアの修理を行っていて、それが丁寧な仕事でとてもおもしろい)

 

連続性とは、同じことが続くだろうと勝手に予想し始めることにつながる。厄日ってとらえると嫌なことしか目に入ってこなくなる。

 

返報性とは、「AならばB」に関して、自己に対する強迫性がつよくなることにつながる。言葉を変えれば、アンカリング。これについては、よくもわるくも日常的に私たちは繰り返している。教育だって返報性によるものだ(1+1=2)。社会性が高いかどうかは「より大多数の"AならばB"に合わせれるか」になる。広範囲に定着したものを、文化と呼ぶ。

 

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最近は、現状の外にしかいない。(今日も部屋の外では建物のリフォームが行われている。いつ終わるのだろう? ツッコミどころありすぎてツッコミを入れるのを最早やめた)

 

連続性の話になるけれど、恐怖や不安が続いてくると、明日もそれが続くのではないかと予感するようになる。

 

恐怖について連続性を感じるようになることは、辛い。

 

現状の外にいたら、過去の経験をもとにした予測はそこまで確度高くならない。だから最近は流れるように生きている。綺麗な景色が出てきたらそのときは大切にしたいくらい。

 

 

 

 

 

 

生態とメタ、ルールと手段

手段はルールのなかで決まる。ルールというのは情報空間をデザインしている。情報空間には必ずなにかしらの制限があり、制限がルールといってもよい。

 

それとは別で、いま興味があるのが生態とメタだ。ゲームでいうと「メタとカウンター」になる。メタがそのときに有力である勢力(キャラクター)で、カウンターがメタに対してだけ著しく強い勢力(キャラクター)。

 

たぶん、ルールが空間を切り取り、生態を生む。生態が生まれると、自然に、メタとカウンターが生まれる。

 

ビジネスでいえば、Airbnbはホテル勢力のカウンターであり、最近だとホテル向けの空室提供サービスがAirbnbに対してカウンターになっている。

 

熱帯のジャングルを想像すれば、もっと物理的な問題になる。あらかじめ草木や虫や動物がいるんだから、そこにはもとから揺れ動いている生態が存在する。人間がそこで暮らしていこうとすると、ジャングルっていう物理空間(人間はけっきょくジャングルを情報空間と最終的にはとらえて処理するんだろうけど)がルールなのだ。

 

永遠というものがこの世にあるとすれば、それはたぶん生態という考え方だ。そこに付随してくるメタとカウンターもおもしろい。どうなんだろう、キャラや勢力がそもそも手段なのかもな。繁栄することが目的であるというのは人間には使えないけれども。

 

 

生活のなかのちょうどよさ

生きることに求めていることって中学生のときと変わったのだろうか。

 

いまは英語でほとんど暮らしている。ふと、バス停で歌っていた鼻歌が合唱祭のときの曲だったりする。(あと、なぜか槇原敬之)

 

まわりとうまく付き合っていったりかき乱されたりしながら、日本のころとは違うペースで毎日を生きている。ユートピアだとか、甘えているだとか、モラトリアムだとか、ここではないどこかとか、現実逃避だとか、食費だとか。そんな言葉をたまに考える。

 

理想を目指して生きているというよりは、私はとにかく嫌なところから逃げている気がする。それでいいんだけど。

 

たぶんいまは生活のなかのちょうどよさみたいなのを求めている。そんなものは味わえてもすぐに消えてしまうものであって、流動的という表現よりはむしろ一瞬の気持ちがよい霧のようなものにも思える。

 

 

新生活について

今日から新生活が始まる。正確には、一週間くらい前からだ。だいたいでいいやということでブログ上では今日からにする。

 

夢の海外での生活が始まった。実感はない。夢の叶え方は簡単で、それはアルゴリズムの問題なだけだ。どう手を組み合わせて、達成するかだ。別の言い方をすれば、いくつかの方法を組み合わせさえすれば、ある意味で自動的に、物事は解決する。

 

あらかじめ設計しておいたプロセスによって解決することもあれば、そのプロセスのなかで突如として予想外の方法が出てきて、考えてもなかった解決方法にいたることもある(解決される、という結果だけは一緒になる)。

 

だからというわけではないけど、やはり私は小さく始めることが好きだ。開始は全体に至らない。適当に始めたときはなおさらだ。大きく言えば、生まれることは、それだけで人生の全体への原因にはならない。この世に生まれることは、最低条件であって、人生の記憶のすべてにはなりえない。

 

緊張してなにかを始めることは、緊張するだけ馬鹿馬鹿しいということ。

 

 

 

作ることについて

クリエーターと一緒に住むことになった。

 

刺激をうけるとともに、なにも作ってない自分がクズに思えてきた。私は人間なのだろうか。

 

私は作る人なのだろうか。自己像が揺れている。

 

産みの苦しみにいつも負けている。勝ったことがない。

 

勝ったことがない、というのは嘘だ。いま文章を書いているからそれはないか。

 

産みの苦しみをいかに細かいパーツで構成できるかなのかもしれない。epicはいつも失敗する。

気に入らないプロセス

人の目を曇らせるのは手段の制限だと思う。

 

「この方法でなければ目標は達成できない」という思い込みが、無駄な焦りや不安を呼んでいる。ひどいときには、「この方法で達成できなければ、達成したことに意味がない」と言い出す。

 

事故・病気にでも遭わないかぎり、人生はなかなか終わらない(終わってくれない)。同じように、手段は絶滅しない。そのときの認知できる範囲で、認知できるものがなくなっただけだろう。

 

取りたい手段が潰えたからといって、もう二度とやりたいことが叶わないと勝手に諦めるのはバカバカしい。

 

細かく言っていけば、1.大きな目標、2.達成プロセスがあるとする。今回で話しているのは2についてだ。1の目標さえ達成できれば2のプロセスなんてぶっちゃけなんでもよい。「あらかじめ決めていたプロセスでないと納得ができない」ということが私はよくある。そのためこの記事を書いている。

 

叶え方なんてなんでもよいだろうという話と、プロセスに貴賎はないという話。時間をかけて設計した手続きはたしかに気に入っていて美しく感じられるときがある。失うと悲しくて落ち込む。それでも、にもかかわらず、手段というのはいつでもけっこう存在している。発生するという表現のほうが近いかもしれない。

 

 

始まりに統合感などない

以前にも書いた。

 


より感覚を書いていくと、たぶん、はじまりには破綻感覚も統合感も存在しない。現状の外から来て気づいたら目の前にあるもの、そして瞬きをしたら過ぎ去っているもの、表現としてはそちらのほうが近い。

 

なにが正しいかなんてわからないし、何が間違ってるかなんて事前にはわかるわけがない。それくらいが「現状の外」ということなのだと思う。

 

始まるときに「あとから辻褄が合うだろう」なんて考えるのは傲慢なのではないか。

 

 

旬(ピーク)

自分のピークはいつなのかなといつも考える。あるいは、とうに過ぎ去ったものであるのか。

 

肉体でいえば、本来は18歳あたりが旬なはずだ。でも、20代入ってからハーフマラソンとトライアスロンを完走している。技能面でいっても、英語はいまいちばん話せる。なにかが、おかしい。

 

10代のころより衰えたのは、時間の使い方かもしれない。特に、文化面で。映画やマンガ、小説は触れなくなった。『やし酒のみ』は昨日ひとの家で読んだけど、やっぱりおもしろいから、他のことに時間を取られているだけな気もする。

 

衰えたもの。映画、文学、音楽。友達と遊ぶ時間。身近で具体的な他人について考える時間。孤独、暇、退屈。傷つくこと。臆病さ。決死の覚悟。

 

そこらへんか。微妙。

 

いまのほうが変化の結果としては好きだ。過去を感傷的にとらえることも嫌いだからまずやらない。

 

未来のことを考えれば、いまより旬を迎える面もあるのだろう。

 

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流行り廃りは、もちろん人間にも及ぶ。「年齢ごとにそのときを楽しんでいきたい」というタイプではない。いまは、浴衣きて祭りには行きたくない。水着きて灼熱の浜辺にいきたいわけでもない。図書館のほうが好みだ(まあ、それは10代でも20代でもまったく変わってないか)。

 

年齢ごとに、というとおそらく社会風俗というよりは、肉体が衰えることによる多数派の振る舞いの変化が大きいのだろう。

 

私はけっこうそういうものを無視する傾向があるから、そのうち肩身もせまくなっていくのだろうか。

 

書いていて思うのは、10代のことをそれでも回顧するときはどうしてもあるなあということ。さっきと書いてること違ってきているが。

 

ほんとに暇で退屈なとき、何も置かれていないフローリングで寝っ転がって、高階からのんびりとした景色を観ているとき、どうしても学生のころを思い出してしまうし、いったいあれはなんだったのだろうと、あのときの気分と考えはなんだったのだろうと、なにかと思ってしまうのである。

 

 

文章の理想

人が読んで楽しいと思えるような文章を書いていきたい。

 

乱暴にいえば、人間の余暇と娯楽のための文章。

 

明るくなるような文章がいい。私もそういったものを好んで読んできたんだと思う。

 

肯定とも寛容とも違う、ただの陽気みたいなのでもよい。

 

私は他人よりだいぶ暇な人生を歩んでいるから、それができるような気が最近するのだ。

 

物語が起きる余地を予感させることは、人にはいつでも可能性が発生する下地があることを知らせてくれる。

 

頭のなかのそれぞれの概念はつねに動き続けいて、絶えず関係の更新をやめない。

 

可能性とは、その人に流れる物語の書き換えのことである。それを示唆してしまうようなことを表現できていけたならと思う。

 

 

お金と機嫌

これからお金が以前よりたくさんかかる生活に突入する。

 

お金では今週はだいぶ悩んだ。もんもんとするのって時間の無駄。しかし、悩みの速度のまま任せていくと、勝手に思考が袋小路に入る。

 

10億の資産を持つ人がリーマンショックの影響で2億まで減ってしまい、自殺しそうになったと話を聞いたことがある。不安も幸福も、差分からきているのかもしれない。

 

まだ考え続けれてないとしても、思考の途中に浮かぶことは、「無一文って何?」という疑問だ。「資産0円」とはどういうことなのだろう。

 

現金をふくめて金融商品をまったくもっていない状態。それは本当に人生のおわりになるのだろうか? なさそうである。人生は、望んでも、自然には簡単には終わってくれないことがほとんどだ。生きることは簡単には終わってくれない。

 

もしかしたら、それは物語の運動性を関係あるような気もしてきた。この話題についてはまた別の機会にでも書く。

 

話を戻すとして、まとめていけば、「無一文」の状態で問題がないという解釈にいたれば、少なくとも(収支計画はいつまでも完璧に詰めきれることはないし)資産がまったくないことに恐怖を覚えることはなくなるのではないか。

 

この場合の無一文とはとても情報っぽい解釈が働いている。「はじめにロゴスありき」レベルのものである。0円になっても、身体はあるし、学んできたものもあるから、始める意志があればいいんじゃないか。文化も人間関係も、お金には換算できるのだし。

 

不安を覚えるのは、たぶん、お金と「規制」についてだ。お金がないことは、結局は、「アクセスできない」ことに直結する。お金は可能性を左右する。可能性へのアクセス権は、この世界だと2つ大きくある。貨幣と言語だ。

 

「お金がなければそれにアクセスできない」という現象が怖いのだと思う。そこでお金以外の手段を発生させれてくれるのが知恵であり、教養と呼ばれるものなんだと思う。

 

タイトルにそってこの記事を終わらせようとするには、なんだろう、機嫌についても触れないといけない。

 

「お金について機嫌よくなりたい」というところからスタートしているのだ。

 

こればっかりは、お金について詳しくなるのが早そうだ。お金に詳しい人に聞くと思う。お金とはなんなのだろうね。

 

値札に書いている価格が「可能性へアクセスすることへの規制」なのは間違いない。意外と、みんな自分の資産については無意識に把握して生きている。自分に自信がないと、美人にはナンパしづらい気がする。

 

お金で生きることを諦めるってことはやりたくねえなーと思う。それでも物語は続くのだ。

 

 

 

 

どうすれば機嫌よくあれるか

・美味しいものに囲まれて育つ

・似合う服をたくさん用意する

・知識人と会話する

・たまには速度が出ることをする

・ちゃんと小説も読む 短くても真似して書く

・機嫌の悪い人と一緒にいない

・冷静な人と一緒に育つ

・適度な運動をする

・朝の素晴らしさを体感する 

・大きな意味での人(人間)とのつながりに感謝する

・健康の大切さを知る

・ノイズを入れる

・美しさとは何かを忘れない

・歯を大切にする

・お金は人間に使う

・いま喫茶店にいるのだが、頭のうえで鳥が鳴いている つばめ?

気分よく書きたい

最近の結論としては、タイトルのものに落ち着く。機嫌よくありたい。し、気分がよければ、だいたいすべて良し、であるように思えてきた。

 

私は書くことを愛しているから、酸いも甘いも極めていきたい。3000回書くのももうすぐだ。それだけ書いたあとでも言える。書くことは楽しい。

 

そのうえで、書くときに、気分よくその時間を過ごせるなら、投資は惜しまないでいきたい。調子のいいときも、絶不調なときも書いてきた。「にもかかわらず」を重視して、どんなときも機嫌がいいように書きたい。ユーモアと気品はそこにあるのではないか。