私の予測可能性
ここ数年は混乱して生きてきた。
今日かな、昨日あたりか。生きるということに予測可能性がある程度見えてきたような気がする。
人間に関して「事前条件がこれこれこういう風に揃っていれば、結果がこうなる」というものだ。
おそらく人は、この感覚にひとつ真理みたいなものを覚えるんだろう。
他者に関してはある程度、予測可能性についての(概念的な)感覚が湧いてくるようになってきた。
ものすごく乱暴にざっくり書けば、小学生のころに良いやつだった人は、大人になってもだいたい良い人だ。その感覚が私の人生を支えている。かわいい子はだいたい大人になってもモテる。かっこいい人と結婚する。だいたい、というのが私の考えとして大事なのだ。(すごく頭悪いこと書いている気もするが!)
私については、まだまったく予測可能性がわかない。私は意外と私に興味がない。なんらかの指標にそって、その道のエリートになれば生活も容易いと思う。それでも、やっぱりわからないのである。
予測可能性については私の心の支えだが、同時に、予測可能性から外れてくれる人たちの存在が私の生きる喜びなのである。
好条件のものが、好結果を出すことは豊かなことだ。そこは安心して影からこっそり眺めていたい。予測から外れたものは私を不安にさせるが、それでも私の手元のデータは更新され、私の予測可能性は寛容になっていく。
他者と生きようかなと
いままで引きこもって製作してるのが理想の人生だと思っていたけれど、それはやめにしようかと思う。他者と関わって生きていこうと思う。
研究だとかものづくりは、人と会って話をしてもまったく進まない(人事的な調整をするのは別として)。すごいと言われてる人に会っても、銀の弾丸的なノウハウ聞いても無目的だと意味がない。時間どろぼうだと勝手にとらえて、今日までそういった時間を増やさないでいた。
それでも、クラスメイトとご飯を食べるのは有意義だと思ったし、製作に関していえば、共同作業のほうがさぼらないのでよい。
思い立つのは突然だとしても、これからは他者と、人間と、暮らしていければよいなと思っていまこれを書いている。貢献とは違う感覚。
人間より、人間から派生すること(心理、製作物など)にもっぱら興味を割いてきて、それはなかなか変わらないかもしれない。それでも、私は人と接する時間をもう少しだけ増やして、私の記憶に止めようとしていきたい。
身体と表現が好き
バイトを始めた。マルチタスクが苦手なのでうまくいくか心配だ。
気づいたことがあって、どうも身体を動かすのと表現することは好きみたいだ。料理が好きなのは、運動と芸術が同時にできるからなのかな?
なにはともあれ、林檎1kg、バナナ1kg、パスタ2kg、米2kg、玉ねぎ1kg、人参2本、苺500gくらいを一気に買う。登山選手のように帰ってくる。
私の身体はいまボロボロだ。10日以上、体調が悪い。熱があると思って体温を測ると平熱より低かったり、寝る前になると咳がひどくなったりする。原因の候補がたくさんあって、わけがわからない状態というのはこのことだ。
健康を損ねはじめると、気分も悪くなってくる。すぐに死ぬわけではない。寿命のことはそれでも考えてしまう。私は他人より長生きはしないのだなと勝手に思い込んで落ち込む。腹をくくるわけではない。弱いときは、覚悟などできない。
小さなころから「17歳で死ぬ」とか「21歳で死ぬ」とかそれこそ根拠のない確信があって生きてきた。ここまで生きてこられたのはまわりの人の支援があってこそだと思う。友人には恵まれている。最近は、偶然ばったり出会う人にも(自然に適当に気楽に生きていても)、人の縁に助けられることが多い。会う人たちもユニークな方たちばかりだ。
体調は少しずつよくはなっているから、このまま「ちょっとよくない」くらいまで、なんとか戻っていきたい。身体が弱いのは慣れているのだ。落ち込むことにも慣れればいいのだけど、それはちょっと難しい。
心の強さを測るときには、弱っているときにどれくらいしぶとく生きれるか、腹をくくるところと往生際が悪いところを的確に判断できるか、などを見ていくといいのではないか。できる人は掛け値なく美しい。一緒に時間を過ごしていけたらこれ以上のわがままもないなあと思う。
英語ができないことについてざっと書く
レポートが書けない。
思うことをざっと書いてみる。
長文が書けない(Writing)
書き方がわからない
雛形がない
詳しくなるのが早そう
本を読みたい
それでも書くのがいやだ・・・
本を借りたい
日常的に読む文字を英語にしていきたい
そもそもアウトプットの量が少なすぎる
「頭がわるい」の個人的な定義
「ユーモアの介在する余地がいっさいない」ということを、いちばん頭がわるいということにしたい。
私のまわりは頭がよい人でいっぱいです。
惰性と慣性
行為を続けていれば頭は慣性みたいにその計算をずっと続けるようになる。
将棋を数局やって、何度か負けると、熱くなって(Tiltして)、どうやったら勝てたかなと考え出していまい、その日は将棋の演算で頭がいっぱいになる。他の行動のクオリティはすべて落ちる。
優先順位からして、いちばんでないことに演算のエネルギーを費やすことは、惰性だって言い切ってしまっていいと思う。エネルギーとは注意が払われるところに注がれる。
だから、惰性って習慣のことなのだ。一瞬の惰性なんてないのだから。その行為が続いて、慣性がついて”止まらなくなって”しまったら、惰性なんだろう。急に止めるには、だから、それはそれでエネルギーがいる。
というわけで今日も論文読みましょう。
連続性と返報性、恐怖が連続することによる恐怖について
精神についての本質のひとつとして、連続性と返報性がある。どちらもとても大事。(いま、この記事を書いている間に、職人さんが私の部屋のドアの修理を行っていて、それが丁寧な仕事でとてもおもしろい)
連続性とは、同じことが続くだろうと勝手に予想し始めることにつながる。厄日ってとらえると嫌なことしか目に入ってこなくなる。
返報性とは、「AならばB」に関して、自己に対する強迫性がつよくなることにつながる。言葉を変えれば、アンカリング。これについては、よくもわるくも日常的に私たちは繰り返している。教育だって返報性によるものだ(1+1=2)。社会性が高いかどうかは「より大多数の"AならばB"に合わせれるか」になる。広範囲に定着したものを、文化と呼ぶ。
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最近は、現状の外にしかいない。(今日も部屋の外では建物のリフォームが行われている。いつ終わるのだろう? ツッコミどころありすぎてツッコミを入れるのを最早やめた)
連続性の話になるけれど、恐怖や不安が続いてくると、明日もそれが続くのではないかと予感するようになる。
恐怖について連続性を感じるようになることは、辛い。
現状の外にいたら、過去の経験をもとにした予測はそこまで確度高くならない。だから最近は流れるように生きている。綺麗な景色が出てきたらそのときは大切にしたいくらい。
生態とメタ、ルールと手段
手段はルールのなかで決まる。ルールというのは情報空間をデザインしている。情報空間には必ずなにかしらの制限があり、制限がルールといってもよい。
それとは別で、いま興味があるのが生態とメタだ。ゲームでいうと「メタとカウンター」になる。メタがそのときに有力である勢力(キャラクター)で、カウンターがメタに対してだけ著しく強い勢力(キャラクター)。
たぶん、ルールが空間を切り取り、生態を生む。生態が生まれると、自然に、メタとカウンターが生まれる。
ビジネスでいえば、Airbnbはホテル勢力のカウンターであり、最近だとホテル向けの空室提供サービスがAirbnbに対してカウンターになっている。
熱帯のジャングルを想像すれば、もっと物理的な問題になる。あらかじめ草木や虫や動物がいるんだから、そこにはもとから揺れ動いている生態が存在する。人間がそこで暮らしていこうとすると、ジャングルっていう物理空間(人間はけっきょくジャングルを情報空間と最終的にはとらえて処理するんだろうけど)がルールなのだ。
永遠というものがこの世にあるとすれば、それはたぶん生態という考え方だ。そこに付随してくるメタとカウンターもおもしろい。どうなんだろう、キャラや勢力がそもそも手段なのかもな。繁栄することが目的であるというのは人間には使えないけれども。
生活のなかのちょうどよさ
生きることに求めていることって中学生のときと変わったのだろうか。
いまは英語でほとんど暮らしている。ふと、バス停で歌っていた鼻歌が合唱祭のときの曲だったりする。(あと、なぜか槇原敬之)
まわりとうまく付き合っていったりかき乱されたりしながら、日本のころとは違うペースで毎日を生きている。ユートピアだとか、甘えているだとか、モラトリアムだとか、ここではないどこかとか、現実逃避だとか、食費だとか。そんな言葉をたまに考える。
理想を目指して生きているというよりは、私はとにかく嫌なところから逃げている気がする。それでいいんだけど。
たぶんいまは生活のなかのちょうどよさみたいなのを求めている。そんなものは味わえてもすぐに消えてしまうものであって、流動的という表現よりはむしろ一瞬の気持ちがよい霧のようなものにも思える。
新生活について
今日から新生活が始まる。正確には、一週間くらい前からだ。だいたいでいいやということでブログ上では今日からにする。
夢の海外での生活が始まった。実感はない。夢の叶え方は簡単で、それはアルゴリズムの問題なだけだ。どう手を組み合わせて、達成するかだ。別の言い方をすれば、いくつかの方法を組み合わせさえすれば、ある意味で自動的に、物事は解決する。
あらかじめ設計しておいたプロセスによって解決することもあれば、そのプロセスのなかで突如として予想外の方法が出てきて、考えてもなかった解決方法にいたることもある(解決される、という結果だけは一緒になる)。
だからというわけではないけど、やはり私は小さく始めることが好きだ。開始は全体に至らない。適当に始めたときはなおさらだ。大きく言えば、生まれることは、それだけで人生の全体への原因にはならない。この世に生まれることは、最低条件であって、人生の記憶のすべてにはなりえない。
緊張してなにかを始めることは、緊張するだけ馬鹿馬鹿しいということ。
ちゃらんぽらんになる練習をする
8月の目標。
気に入らないプロセス
人の目を曇らせるのは手段の制限だと思う。
「この方法でなければ目標は達成できない」という思い込みが、無駄な焦りや不安を呼んでいる。ひどいときには、「この方法で達成できなければ、達成したことに意味がない」と言い出す。
事故・病気にでも遭わないかぎり、人生はなかなか終わらない(終わってくれない)。同じように、手段は絶滅しない。そのときの認知できる範囲で、認知できるものがなくなっただけだろう。
取りたい手段が潰えたからといって、もう二度とやりたいことが叶わないと勝手に諦めるのはバカバカしい。
細かく言っていけば、1.大きな目標、2.達成プロセスがあるとする。今回で話しているのは2についてだ。1の目標さえ達成できれば2のプロセスなんてぶっちゃけなんでもよい。「あらかじめ決めていたプロセスでないと納得ができない」ということが私はよくある。そのためこの記事を書いている。
叶え方なんてなんでもよいだろうという話と、プロセスに貴賎はないという話。時間をかけて設計した手続きはたしかに気に入っていて美しく感じられるときがある。失うと悲しくて落ち込む。それでも、にもかかわらず、手段というのはいつでもけっこう存在している。発生するという表現のほうが近いかもしれない。
始まりに統合感などない
以前にも書いた。
より感覚を書いていくと、たぶん、はじまりには破綻感覚も統合感も存在しない。現状の外から来て気づいたら目の前にあるもの、そして瞬きをしたら過ぎ去っているもの、表現としてはそちらのほうが近い。
なにが正しいかなんてわからないし、何が間違ってるかなんて事前にはわかるわけがない。それくらいが「現状の外」ということなのだと思う。
始まるときに「あとから辻褄が合うだろう」なんて考えるのは傲慢なのではないか。