地元の神話体系に登場できない苦痛

生まれた病院はもうなくなっているし、住む場所を転々とする生活をしてきた。

 

地元という感覚のところがない。故郷って自負する場所もない。ふらふらとしてきた人生である。

 

いま住んでいる街は気に入っている。長々と暮らしたい。でも、性分からまた移動すると思う。

 

ときどき、苦しくなるときがある。それは、地元の神話体系に登場できないときだ。他人の記憶に残れないとわかっているのは辛いことなのだ。


盆正月に、親族に噂されるのが嫌で田舎へ帰らないように、人の口に上りたくないのなら、街で身の上話をすることもなくなる。地縁という言葉に恐怖を持ってしまっている。自分にはあまりに濃すぎる存在ではないかと。

 

田舎には身近な山や川、海に、本当に伝説があったりする。その土地に根付く文化や逸話が確実に存在している。同じように、地元のコミュニティにも時間をかけて蓄積されてきた歴史がある。

 

「あいつはいまなにやってんだ」とか、「こいつも昔はなあ」とか、小さいころの失敗談や、聞いたら顔が赤くなるようなエピソードまで、皆が集まったときに酒も交えて語られる。

 

街には街の、固有の神話体系があるのだ。

 

いままで、いろんなところに住み生活を楽しんできた。でも、土地に根ざした文化に回収されたことはない。地元の神話体系に登場できないで、私は誰の記憶に残ることができるのだろう。

 

地元に参加しきれなかったという憧れと失望が、心にある。私は結局、土着することができなかったのだ。

 

未来にどの土地でも、私が語られることはないと覚悟をするには、勇気がいる。