才能とその運用について

顔と中身は一致するのだろうかとよく考える。顔が怖い人は、他者から恐れられるような内面を持っているのだろうか。確率はどれくらいなんだろう。

 

「美人は性格が悪い」と人類で言い出したのは、おそらく美人でない方々だろうから、まあ、それは置いておいて。

 

近いところで、10年以上、考えていることがある。才能があった場合にそれは必ず運用されないといけないのだろうか。

 

前提として、才能がある場合は、それで飯が食えるなら、続けていきたいと本人が思うこととする。

 

問題は、才能があって、飯が食えていたとして、本人がその分野にやる気がない場合である。つまり、資産を自覚しているけれど、運用する気がないケース。

 

テレビで流行った「美人すぎる~シリーズ」は「美人であるのならば、もっと他の活かし方でもよかったんじゃねえの」という意味を部分的には含んでいる。

 

バスケの神様、マイケル・ジョーダンは途中から野球を始めた。どう考えてもバスケの神様はバスケをやってたほうが稼げるし、能力を最大限つかえているのにだ。

 

世の中には想像以上に才能がある人たちがたくさんいて、日常でも気をつけて見ているとびっくりすることがよくある。

 

個人的にいちばん多いのは、頭が信じられないくらいいいのに、それに自覚的でない人たち。「私は馬鹿なので」と本当に自信がなさそうに言うのを見ているとなんとも表現しづらい気持ちになる。

 

話があきらかに脱線し始めている。無理にまとめる気もないとしても、書いていけば、結局は運用の方法なんて本人が決めたいように決めればいい。

 

たぶん、そこにある一種の不合理性を私が消化できてないだけだ。どうも心のどこかで不経済を感じてしまっている。

 

資産の運用の仕方なんて本人の問題だ。ただ、見ているともったいねえなあと感じることが多々あるから、書いておきたかったのだと思う。そこに豊かさや自由があるのもわかってはいるのだ。可能性も。

 

映画『ガタカ』のように、遺伝子の研究が進んで、出生前に病気のリスクやあらゆる才能が予測できたとしても、それでも人は自らの資産の運用方法をわがままに決めるんだろう。

 

いちおう、病気のリスクくらいなら最近はわかるようになってきているらしい。データ、合理性、経済性に人間がどこまで従うのかは気になり続ける。

 

背が高ければ、バスケの適正はあるていどは高いといえる。でも、別にバスケをやる必要はない。足の早い人は、走ったほうがいいのか。頭がいい人は、頭を使ったほうが幸せになれる?

 

おそらく、これはサンクコストの話のように思えてきた。可能性のサンクコストだ。背が高い人がバスケを選ばなかったとしても、背は縮まない。バスケの可能性を試せなかっただけである。それが選択というものか。そこにおいての意思と呼ばれるものは、なんなのだろう。

 

そこらへんで筆を置いておきたい。