一生勉強を続けようと思っている1つの理由

それは、元・国会図書館館長、長尾先生の影響だ。

 

大学4年生のときに、筑波大学で図書館情報学系の集まりがあって、私はそこで発表をすることになっていた。

 

直前までテーマを決めれてなくて、つくばエクスプレスのなかでプレゼン資料は作った。

 

イベントの開始間近になって、主催者とスタッフの方が慌てていた。ゲストでいらっしゃった長尾先生が見つからないのだ。

 

その場にいる人間で、会場の近くを探した。程なくして見つかった。長尾先生は、図書館のなかにいらしゃった。

 

「え、長尾先生、なにされてたの?」と失礼ながら私がスタッフの方に聞くと、

 

「それが、その、勉強をされてました!!」。

 

長尾先生は、登壇までのわずかな時間を見つけて勉強をしていたのだ。

 

図書館情報学を学ぶ人間にとって、国会図書館館長は神に等しい存在と言っても過言ではない。

 

そんな方が、寸暇を惜しんでぎりぎりまで勉強をしていることに衝撃を受けた。このことが私がいまも勉強を続けている理由になっている。

 

人間は、一生勉強するのだとはっきりわかってしまった。

 

その後、イベントでの長尾先生のお話、学生との質疑応答のなかで、世の中にこんなに頭のよい方がいるのだという驚きと、鍛えあげるということは死ぬまで続くのだなという感覚が、いまも私のなかにある。

 

知性は、鍛えあげるものだ。それは、ずっと続くんだろう。

 

 

 

 

怠惰で神経質な人のためのバスマット不要論 〜お風呂を出たら、タオルを敷こう〜

お風呂場から出たら、まず行うことはなんだろう?

 

そう、足の裏を拭く。

 

バスマット、足拭きマット。呼ばれ方はいろいろあるけど、今回はバスマットで統一する。

 

私は、バスマットは必要ないのではないかと思っている。

 

「洗面所をびしょびしょにしてもいいってこと?」と思われる方もいるかもしれない。

 

それは違う。

 

「使い終わったバスタオルを、そのまま床に敷いて上に乗る」。私の提案はこれである。

 

このやり方なら、バスマットは必要ない。バスマットを何日前に洗ったか衛生面でひやひやしなくていいし(もはや怠惰なのか神経質なのかわからない)、そもそも洗濯しなくてもよくなるから管理の手間もなくなる。

 

最近の洗剤は進化を続けている。自転車のメンテナンスで、ひどい油汚れがついたジーパンも、下洗いなしで綺麗になった。床に置いたくらいのバスタオルなら、洗えばまた気持ちよく使うことができる。

 

お風呂に入ったあとの体を拭いているのだから、バスタオルというのは本来、汚れがそれほどつくものではない。床に置いたとしても洗剤が十分に清潔にしてくれる。

 

大学生のとき、家事に慣れてなくて苦肉の策で、この方法に切り替えたけど、思いのほか、気楽に管理運用できている。

 

ずぼらだけど、衛生面に気を使いたい。

 

そんな人には、おすすめできるやり方だと思う。

 

 

 

 

50年後、未来の友情

平均寿命が過去最高になった。男性80.79歳、女性87.05歳。*1

 

医療技術がいまよりも進めば、私も年をとったとき、想定される寿命がいくつになるか楽しみである。

 

長い年月つながりか、15年の付き合いになる小学校からの友人と、今日の昼食をともにした。

 

その後、自分の部屋で遊んでいたのだけど、お互い眠くなってきてしまって、私はソファ、友人は床に本を枕にして、しばらく寝てしまった。

 

気が置けない人といると、リラックスしてよく眠くなる。

 

肩の力が抜けてるときは、ほっといて欲しいし、ほっときたいから、相手のことを気遣わなくていい関係は楽だ。

 

高校生のときも、仲の良かったクラスメイトの家に行っては、マンガばかり読んで日が暮れていた。クラスメイトも勝手に宿題をやっていた。各々、好きなことを気の向くまま同じ空間で行っていた。

 

50年先、自分が社会から高齢者と見られるときに、そういった間柄の人がいて欲しいなと思う。

 

気を使わなくていい友人がいることは、自分が理解されることより、はるかに大事なことなのだ。

 

足りない情報量とアクセスできない不安

本屋に行くときに、軽い買い物だからと、パソコンもスマホも持って行かなかった。

 

家を出て、自転車で走っていたら、ぼんやりと不安になった。なんについてのものか、目的地につくまで考えたのだけど、情報量が足りなくなる不安なのだと思う。

 

行き慣れた書店だったから、途中で道に迷うわけでもない。Googleマップはいらない。

 

帰りのカフェで、買った本に浸っているとき、わからない単語が出ても調べる気もなかった。読み飛ばせばいい。

 

私の生活は、一部分を切り取っていけば、本一冊で情報量が済むときがある。

 

インターネットにアクセスできる装置がない生活も、ときどきは作らないと、持っていなかったときの感覚を忘れてしまう。

 

「いつもと比べて足りないから」という理由で、いままでの習慣に戻ろうとする動きを、疑うときがあってもいいなと思った。

諦めるときの基準がほしい

また一つ諦めた。Amazonでタイムセール中のUS配列キーボードだ。

 

理由は「必要であると確信できないため」だ。

 

それは、なんとなくのものである。「同額を違うものに投資しなおしたかった」とかも原因に入る。

 

そのなかで、目的から考えておけばよかったな、と思う。

 

キーボードの目的とはなんだろう? ふんわりな判断になったことは、そこを考えないところからも来ている。

 

結論からいってしまえば、よい入力装置があればよいプロダクトが生まれるという思い込みがあることに尽きる。

 

作業環境まで含めると、椅子を厳選したり、部屋の空気や普段の食事まで気を配るのも入っていくのだろう。

 

タイムセールのキーボードを買わないということは、元からあるラップトップのキーボードでプロダクトを作るということや、もっとよいと自分が信じれる入力装置を買うなどの選択肢になっていく。

 

もう1点あるとすれば、優先順位の問題。

 

いまは本を読んで文章を書くことに集中する生活が送れていて幸福だ。

 

文章を書くうえで、ペンや紙、キーボードは優先順位があがる。だから買おうとすることは自然なことなんだけど、なんだろう、そこはまだわからない。

 

「よいと思われる道具を使っていれば、気分はよくなり、アウトプットがより多くできるようになる」。そこに投資するのは健全だ。喫茶店じゃないと作業できないって人もいるくらいだし、気分の問題は見過ごしてしまいがちだけど、本質に近いときもある。

 

いまは、もっとお金を貯めて作業環境にお金をかけれるようにしようという意図でUS配列のキーボードは買わない。

 

書いておきたいのは、その判断が、なんとなく行われたことだ。今後は、「購入の目的」と「優先順位の問題」を片付けてから行動に移りたい。

 

本当は購買なんて感覚でいいじゃないかとも思う。買い食いなんて典型だ。でも、寿命に不安がない状態であるのならば、気をつけてないと先に尽きるのはお金だ。もっとお金の心理に詳しくなりたい。

 

判断することまで広げると、物事を決めることには基準がある。無意識であれ自覚的であれ。

 

諦めるときに、言葉をもっと増やして諦めるようにしたい。

 

 

 

 

嘘をつくのに抵抗がない人

「嘘をつき続ける生活」、「すべてのことに正直に答える生活」。

 

1ヶ月、やりぬくとしたらどっちが楽だろう?


小学3年生のとき、隣のクラスに、「生まれてから1回も嘘をついたことがない」という人がいた。

 

通っていた小学校は、漁港の脇の3、4メートル盛り上がった丘の頂上にあった。

 

転校したてで友達もいなかったから、休み時間は廊下に出て外を眺めていた。窓からは、凪で出なかった大型漁船がコンクリート岸に敷き詰めるように並んでいて、そのなかから祖父の漁船を探すのは楽しかった。積み荷のない軽トラックが、3速のギアでのろのろと漁協に向かってカーブを曲がっていく。晴れた空には、カモメと烏とトンビが、地味なサラダボウルみたいに混ざって飛んでいた。カモメの声が、いちばんうるさい。潮気のある生ぬるい風が吹いて、鼻に当たった。

 

だらだら過ごしていると、学校唯一の友達である従兄弟の真くんに背後から話しかけられた。

 

「隣のクラスに嘘をついたことがないやつがいるらしいから、見に行こう」と言う。

 

休み時間も終わりそうだったから嫌だなと思ったけど、転校生という肩身の狭い身分でたった1人の友達を失ったら学校生活に支障が出るだろうなという打算で、ついていくことにした。

 

嘘をついたことのないその子は、隣の3年1組にいた。「生まれてから一度も」ということで、近ごろ有名になってるようだった。小学生の頃から、他人に興味が薄かった私としてはかなりどうでもよかったのだけど、すべてのことに本当のことを言う人がいるんだと、そこには興味がわいた。

 

彼は黄色いに近いクリーム色の短パンと、紺色のTシャツを着ていた。短髪でタレ目が特徴的だった。賢そうであるし、なにより大人しそうに見える。少し、性格が悪そうな人を考えていたから当てが外れた。名前は直人くんといった。

 

従兄弟の真くんは、「好きな人は誰か」と小学生には致命傷になる質問をしたのだけど、「答えられない」と言った。それはおかしいと真くんが言うと、嘘はつかないことは、すべてに正直になることとは同じではないといった意味のことをいっていた。真くんにはたぶん直人くんの言いたいことがわかっていなかったと思う。直人くんも人がクラスに来て迷惑そうだった。彼の性格からして、目立ちたいという理由で彼自身が嘘をついたことがないことを吹聴したわけでなく、誰かしらが言いふらしたのだろう。尾ひれもついていたのかもしれない。授業開始のベルがなったから私たちはクラスを後にした。

 

結局、私は翌年にまた転校してしまうから、彼がどうなったかはわからないけど、その後の十数年の間に嘘はついてしまったんではないかと思っている。

 

人狼をやっていたときにも思ったけど、人間は嘘をつく専門的な訓練を受けていない。だから、1対1の対面で騙しきれるくらい嘘が上手い人はなかなかいないし、あとから麻痺していくことはあるとしても、嘘をつくときに抵抗感がない人はいないと思っている。

 

「ルールが不完全ならモラルに期待しても仕方ない」という言葉がある。それでもモラルは、嘘をつくときに一定の働きをしてくれる。心のなかで抵抗になってくれる。

 

嘘をつくのに抵抗がない人はいない。自分を騙しきっている人がいるくらいだろう。その人にとっては、そのときだけは自分の真実を話す時間になっている。

 

信じた人も、その人のなかで「真実と感じたから」信じているのだし、騙す方も「感じた真実」を話しているから、お互いのなかで真実が成立している。確かめないかぎり嘘か本当かわからない。たちが悪いことだなと書いていて思う。

 

「嘘をつき続ける生活」、「すべてのことに正直に答える生活」。どちらが楽かという話に戻ると、1ヶ月なら嘘のほうが楽だと思う。会社で働いているなら嘘の部分というのはどうしても混じるし。ただ、人生を少しでもよくしたいならここぞというときは正直になったほうがよい。それは少なくとも長期間の健康を保証してくれるはずだ。本音は健康によいのだ。

新規事業計画書から学ぶ、物語の「嘘っぽさ」

大学時代の友人と数年ぶりに再会をした。

 

お互いマンガの『HUNTER×HUNTER』が好きで、学部事務室の隣にある異様に長いベンチに座り、次のストーリー展開はどうなるかをよく話し合った仲だ。

 

エンジニアになった彼は、会社員をやりながらときどき趣味でWebサービスを作っている。新しい技術を使ってサービスが作れればそれでよく、事業規模の拡大をする気はまったくない。

 

次に立ち上げるサービスのアイデアを聞いているうち、「じゃあ、事業計画書に直してみようか」という話になった。

 

学生のときからノリで生きているような人だったから、話の流れに笑ってしまい手伝うことにした。「誰が読む想定?」と聞くと友人は「偉い人」と答えた。なるほど、よくわからない。とりあえず書き始めてみよう。

 

新規事業計画書に必要な情報を埋めていく。

 

つなげてひとつの物語にしていく。

 

創業者プロフィール、プロダクトを作る背景、市場規模、競合分析と競合切り、事業モデル、事業の初期に起きうる問題、事業フェイズごとの戦略、事業を可能にする役員メンバー。

 

なぜ、なぜ、なぜ、を埋めていく。1スライド1メッセージ、フッターにはサービスのロゴも入れよう。プレゼンの練習もしてみようか…。

 

計画書に入れた要素は、目的がはっきりしている。「説得力」をもたせられるかどうかだ。つまり、リアリティをいかにもたせられるかだ。嘘っぽさとの戦い。この計画書は本当に実現しますよ。未来にかならず存在しますよ、と。

 

嘘っぽさとは、言いかえれば「本当らしさ」になる。

 

必要な情報を埋めているときに、ガルシアマルケスの言葉を思い出した。ガルシアマルケスは『百年の孤独』などで知られるノーベル文学賞までとった作家だ。

 

著書の『物語の作り方』にはこんな記述がある。

 

「本当らしさの限界というのは、われわれが考えているよりも広がりのあるものなんだ。ただ、そういう限界があることはわきまえておかないといけない。ちょうど、チェスをするようなものだ。視聴者、あるいは読者とゲームの規則を決めておく。つまり、ビショップはこう動き、ルークはこう、ポーンはこう……といったようにね。で、いったんその規則ができあがったら、もう変えてはいけない。一方が途中でそれを変更しようとしても、もう一方は受け入れてくれないからね。すべてのキーは大いなるゲーム、つまりストーリーそのもののうちにあるんだ。相手が君のゲームを受け入れてくれれば、なんの問題もなくゲームを続けてくれるというわけだ」

 

読む人によって視点は違う。にしても、人それぞれの「本当らしさ」を信じるポイントが存在する。それは書き手からすれば上記の「ゲームの規則」に他ならない。

 

たとえば投資家に見せるのであれば計画書には投資に対してどれだけのリターンが返ってくるかについて言及がなければならない。政治家に読んでもらうなら、実現した場合に所属する選挙区でどれだけ影響があり、うまくいったときに名前を出すから、あらかじめその人の立場も明確にしておけないといけない。

 

人によって「本当らしさ」を感じるところは違う。

 

そもそも日々のなかで私たちはどうやって「本当らしさ」を信じているのか?

 

テレビショッピングは「テレビでやっている」から信用されている。Webサイトで行われる受注生産も「サイトへの信頼」があるから成り立っている。

 

将来、ハッキングなどによりテレビそのものが乗っ取られ、偽のテレビショッピングの放送がされたら、同時多発的・国家規模の振り込め詐欺になる。画面に映る電話番号、応答するテレホンオペレーター、3日後の午前中に指定した商品。それらを疑う要素がどこにあるのか。

 

真実を感じる点は、社会のなかで事前に共有されていると思ってもよいのかもしれない。そして、「本当らしさ」とは誰にでも扱えるものでもあるということだ。物語を作るときは、特に。

 

習慣が未来をデザインする(例えば、くしゃみ)

16年間、続いている習慣がある。「追加のくしゃみ」だ。

「奇数回のくしゃみをしたら、わざともう1度くしゃみをして、偶数回に戻す」。

1回のくしゃみだったら、もう1度追加して、合計2回分したということにする。

「奇数のくしゃみは悪い噂。偶数ならよい噂」

小さな頃にそう聞いてから、なんとなく始めた。

 

最近の「くしゃみ」を起因とする行動は以下のとおり。

 

・よい噂をされていることになるから、機嫌がよくなる

・機嫌がよくなると、思い切った行動が取りやすくなる

・思い切ると、執筆用のシェアオフィスを1ヶ月契約する(完了)

 

些細な事に思えても、習慣は未来の可能性に影響しているのだ。

 

世の中には、習慣によって固有の人生になった人もいる。

・「水曜日の19時に、馴染みのカフェで待っています」という恋文を送り、その後35年間、決められた時間に、カフェで愛する人を待ち続ける人生*1

・62年もの間、「読者がいない自分のためだけの小説」の執筆を続け、生涯で1万5145ページも書き上げる人生*2

 

習慣は他にも様々だ。

「ベルリンのスタートアップ企業で働くために、毎週土曜日の18時からドイツ語のレッスンを入れている」という目的ありきのものだったり、「夜ご飯を食べたら30分以内に歯磨きをしていたけど、そのときに片足立ちをする」と既存の習慣をアレンジをしたものだったり。

 

バタフライエフェクトじゃないけど、片足を上げる人生と上げない人生とは違ったものになる可能性がある。行動に移せるかどうかが違いを生む。大切なのは自らの行動が未来に影響を与えているという感覚だ。

 

習慣は細かく見れば、1回1回の行動なのだ。行動は可能性を左右する。

それならば習慣は、未来をデザインしているとも言えるのではないだろうか。

 

 

*1:ガルシア・マルケス『物語の作り方』もしくは『わが悲しき娼婦たちの思い出』の訳者あとがきより。"子供も孫もいる老女のもとに、ある日一通の手紙が届いた。差出人は彼女がかつて心から愛していた男性であり、水曜日の午後五時にどこそこの喫茶店で待っていると書いてあった。女性がまさかと思いながらも店に行ってみると、なんとその男性が彼女を待っていた。つまり彼は35年間、毎日欠かさず彼女を待ち続けていたのだ"というお話。創作されたエピソードの可能性が高い。真偽は不明。

*2:ヘンリー・ダーガー。世界一長い小説と言われる『非現実の王国で』の作者。62年間、読者を想定していない自分のためだけの小説を、人知れず書き続けた。日中は病院の掃除婦として仕事をし、夜に執筆をしていた。彼の部屋にはベッドがなかったと言われている。死後、遺品を整理しにきた大家が、大量の原稿用紙を発見し、ダーガーが小説を書いていたことが発覚した。

死ぬ前から葬儀について

江戸時代に活躍した国学者の本居宣長は、自らの葬儀において、棺桶の運び方まで生前から書いておいたらしい。それに倣うわけではないにしろ、そこまで細かくではないにしろ、自分の葬式について希望することをここに書こうと思う。

 

「いい歳して」という表現は、発言者の観点によるものだ。80歳の祖母からすれば、私はまだまだ若い。しかし、女子高生の従姉妹から見れば、私もいい歳にはなっている。私が死んだときに、応対する人が困らないようにいまからしておくことは、不自然なことではないだろう。

 

希望することはとりあえず2つ。

 

 

1.お金はかけてほしくない(喪主向け)

 

死んだ人間にお金をかけるよりは、生きている人間が、生を謳歌することに使ってほしい。N回忌で皆が集まって、まったりと飲むビールは美味しい。葬儀は簡素なものにして、院号とかもなんでもいいので、そこで節約した分を、食事の内容を豪華にするなどに用立ててくれるとありがたい。できるかぎり、葬儀に参加した人にお金が還元されるようにしてください。

 

墓はどこに入るかわからないとして、死んだときの法律が許すのであれば、海に骨を撒いていただけると助かります。海で育った身なので、骨も海にかえすのが筋が通っている気がします。

 

 

2.いい機会にしていただきたい(参加者向け)

 

モダン・ジャズの帝王マイルス・デイヴィスは、自伝にてこう言っていたと聞く。

 

「俺の演奏を聴いた後、うっとりしたカップルが、そのままベッドインしてくれりゃそれでいいんだ」

 

さすがに葬式でうっとりする人はいないだろうが、うまく、なにかしらのよい機会にしてほしい。行きたかったところに行くとか、気になっている子をデートに誘うとか、普段なら気兼ねがあってできなかったことの、気分転換にぜひともしていただきたい。

 

 

死についてはまた別の機会に書くけども、言いたいのは「死はなにかのきっかけになっている」ということだ。

 

 家族が病気で倒れて、集中治療室からなかなか出てこなかった時期を、私も経験している。ある日、家族がいつも座っている椅子が空白になっているのをじっと見た。なぜだかわからないがじっと見ていた。そのとき「なんか、新しいなあ」と感じたことを、家族が病院から帰ってきてからも、よく思い出す。

 

死は常に新しいみたいだ。存在の逝去は、空白を生み、空白は新たに始まりを生む。

 

というわけで、もしも私が死んでしまったら、新しくなにかを始めるきっかけにしてくれると嬉しいです。天国でバドワイザー片手に、馬鹿な酔っぱらいも喜ぶんじゃないかなと思います。

 

 

 

apple girlに告ぐ

「omamori  wo kudasai」とSkypeのチャット欄にメッセージがあった。

 

 相手の名は、apple girlというおそらく女性。

  

理由はわからないが、とにかく日本のお守りがほしいのだと言う。お守りだったらなんのためのものでもよいらしい。詳しいことは一切教えてくれない。どこの国に住んでるかも謎。でも、とにかく、至急、必要とのこと。

 

必死さだけは伝わってきた。これもなにかの縁かなと思い、大学生だった私は協力をすることにした。

 

友人に電話をする。神社めぐりの趣味がこうじて、神社の隣に住んでしまっている人間だ。事情を説明して、外に出てもらい、お守りを買ってもらった。安産祈願よりは学業成就のほうがいいかなと思い、そちらを選んだ。

 

「買ったよ」とapple girlに言うと、「指定した住所に送ってくれ」と頼まれた。宛先は韓国のソウル。そして、「貴方の住所も教えてほしい」とも言う。なにかヤバイ犯罪にでも巻き込まれてるんじゃないかと一瞬不安になった。まあ、乗りかかった船。最後までやってみるかと多摩センター206号室の住所を素直に伝えてみることにした。

 

それから、数ヶ月が過ぎた。apple girlのことは忘れてしまっていた。

 

卒業式を控えた3月に、一通の手紙が来た。ソウルからだ。すぐに開けて読む。

 

「大学に受かりました」と、そこには書いてあった。

 

彼女は、韓国の受験生だった。合格したのは日本語学科。不安と戦うため、日本語のお守りがどうしても必要だったのだ。「お守りがあって本当によかった。ありがとう。」とも書かれてあった。

 

世の中なにが起こるかわからないなと、私はそのとき、腹から感じたのだった。

 

そして、ここからが本題。

 

実は、私がアホすぎて、返信しようと思っていた貴女の手紙を、引っ越しのときになくしてしまいました。

 

このブログはこれからも続けていこうと思っています。もし、見かけることがあったら連絡をください。

 

貴女のおかげで、私も、世界の広さを体感することができました。

 

また話ができるととても嬉しい。

 

 

人工知能がプロ棋士に勝つことについて

GoogleのAlphaGoが、トップ棋士に勝ち3ヶ月ほど経つ。将棋も、いつかは人工知能に完全に勝てなくなるときがくると思う。将棋も論理を追求するゲームだ。コンピュータの演算に乗せれるものには、人間は勝てない。

 

そのなかで、プロ棋士が人工知能に負けることは大きな問題ではないと思っている。

 

プロ棋士の尋常でない能力が、コンピュータによってかえって理解できるものになったからだ。

 

AlphaGoに使用されたCPUはおよそ1200、GPUが260だったそうだ。
 
AlphaGoの本質はソフトウェア的な部分だから、演算に使ったハードウェアの話はするのはズレているとしても、一矢報いたイ・セドル九段の才覚はそれに匹敵したということだ。そんな人間、かつていただろうか?

 

それも、人工知能との対局のおかげである。プロ棋士が人間離れした能力を持っていることが理解しやすい形で示されたのだ。

 

アマチュアの人間がトップ棋士に勝つのは不可能だ。そう言っても過言ではないレベルで、アマチュアにとってプロは神に等しい。「人間同士で勝負したとき、勝てんのか?」となったら、勝てない。鍛え上げられた肉体がその存在だけで畏敬を集めるように、プロ棋士の権威もそこまでは揺るがないのではないかと思う。

 

すべてがデジタルになったとき、創造性もわかりやすい形で理解できるかもしれない。優れた芸術作品になぜ心を打たれるのか?  なぜ涙を流す?  怖くもあるし、楽しみでもある。

将棋について

ゲームの完成度は、ルールの完成度で決まる。

 

ポーカー、花札、カタン、麻雀、バックギャモン、人狼、モノポリー。世界には、数えきれないほどのゲームが存在する。そのなかで、将棋の完成度を超えるものには出会ったことがない。

 

9×9の81マスのうえで、詰みが成立することにいつも驚きを感じる。将棋のシステムそのものが論理をうまく競わせるようにできている。設計者は誰なんだろうと考える。

 

高校生のときに夢中になったこともあり、受けている影響は大きいと思う。考え事が好きなのはそのうちの一つだ。

 

好きな要素を挙げていくと、「負けたらすべて自分の実力」なところが好きだ。わかりやすくていい。人のせいにもしなくていいのも好きだ。団体競技だと、試合が終わったあとに、「あいつがあのときああしてれば」と言い合いになるときがある。それを見るのが嫌だった。

 

中学校のころ、サッカー部の2軍に所属していた。責任のなすりつけ合いが辛かったのに加えて、主な仕事が「ハーフタイムに1軍が飲む麦茶を、冷たく美味しく作ること」だったのにもうんざりしていた。高校に入学するとき、部活は個人でできるものにしようと決めた。

 

走るのも早くなかったし、文化系を選んだ。『ジャングルはいつもハレのちグゥ』が勧誘ポスターだったアニメ研究会と、祖父から小さいときに教えてもらった将棋部とで迷い、結果として将棋部に入った。

 

県大会には出場できていたから、適正はあったのだと思う。最後の公式試合は、現在プロ棋士をされている方が相手だった。悔しくって、そのとき指せなかった最善手はいまだに覚えている。

 

 将棋の完全性と思考する豊かさはいまも享受できていると思う。将棋はよいゲームだ。

 

 

 

 

「永遠」という言葉について

永遠という言葉には、2つの用途がある。

 

1.終わりがなく、ずっと続くこと

2.感覚の程度の表現として、「すべてを上回るものであること」

 

1に関して言えば、永遠というものは存在しないと思っている。永遠を保証するには、永遠を記憶する人間が最終的には必要だ。ただ、それは人間にはできない。

 

2については、生活のなかでは、こちらを使うことが多いと思う。「とても」だとか「すごく」だとか「一番」だとか、それらを上回る表現として「永遠」はある。

 

「永遠に君を愛するよ」という台詞は、「すごく愛しているより一番愛しているより、もっと君を愛している」と言っているのと同じだ。

 

人には寿命があり、いつかはいなくなる。誓われた永遠の愛は、果たしてなされるのか?  歳を取ってから聞いてみるのは一つのいい手だ。それなら、記憶から答えを得ることができる。

 

「全体」という言葉について

「全体」を、なるべく疑うようにしている。

 

状況によって、人によって、意味するところがズレるからだ。

 

政治家にとっては、マスコミを警戒して帳簿の見直しを行った故郷の選挙事務所かもしれないし、裏切り者が出て急いで身の振り方を考えなければならない名のある政党かもしれない。

 

天文学者とっては、「4月に生まれたから」という理由で季節の名前がついた娘のいる暖かな家庭かもしれないし、いまなお無限の拡大を続ける彼が愛する銀河系かもしれない。

 

だから、全体と言葉が出たときには、自分と相手とで、それぞれ意味の階層が違う可能性がある。73億もいるこの世界の住人たちで異なっていることだってありえる。

 

誰がが「全体」を説くとき、受け手は相手の「全体」を想像する。でも、それはこの世の真理ではない。相手の、ただの頭のなかでの事柄だ。

 

日常で接する「全体」とは、必ず誰かしらの元から生まれたものである。

 

弊社、我々、この国、うちのクラス、僕たち、私たち。

 

目前にしたとき「これは一体、誰が考えた全体だろう?」と思いをめぐらす。