【書評】14歳中学生に「ニートは社会の希望だよ」と説明してみる / 飲茶『14歳からの哲学入門』

 

 

 

まれに見る「ざっくり解説本」です。良書。

 

哲学・思想を書いた本でここまで「わかりやすさ」に振り切った本って存在しないんじゃないでしょうか。

 

[この本ってどんな本?]

・哲学の歴史がざっくりわかる、人にも話せるようになる本です。

・ネットスラングありありで、口調もラノベっぽい。哲学書なのに途中でたまに笑う。

・読み終わったらなぜか本書を読んでない人より、哲学についての基礎教養がしっかりついている。

 

[どんな人におすすめ?]

・「実存」とか「構造主義」とかって何? 調べたけどわかんねー!と疑問を持つ中学生
・人間の思考心理の癖を知って、マネジメントに活かしたい経営者
・哲学の基礎的な態度を網羅する、入門書が欲しい大学1年生

・仕事はできるようになったけど、教養に不安が出てきた社会人3年目
 

[飲茶さんってどんな人?]

作者の飲茶さんは、一言でいうと、「ネットで有名になった哲学系の人」。おそらく「史上最強の〜シリーズ」は本屋さんで見たことがある方もいるのではないだろうか。

 

表紙、目立つから。

 

 

 

飲茶さんが経営者というのは、本書が成立してる大事な要素だと思う。科学者が哲学の本を書いたら、ここまでくだけてわかりやすい解説には、立場上踏み込みづらいからだ。

  

[哲学ってそもそも何?]

本書では、「人間の認識は正しいの? なんで正しいの? 限界はあるの?」といった認識論を中心として進んでいく。

 

「そもそも哲学ってなんなの?」という疑問に対しては、以下のような記述がある。

 

「古い常識を疑って今までにないものの味方を発見し、新しい価値観、世界観を創造する学問」(p3) 

 

 「哲学とは、『価値』について考えることである。今までにない新しい『価値』を生み出したり、既存の『価値』の正体を解き明かしたりすることである」(p40)

 

哲学者のキャラクターにも焦点を当てつつ、解説は進む。なんというか、さすが既存の価値観をぶち壊してきた哲学者たち。一般的な中二病のイメージすら、完全に超えている人たちばかりだ。

 

[いちばんの見どころは?]

6章「これからの哲学」がおすすめだと思っている。紹介してきた哲学者の流れを引き継いだ上で、飲茶さんが持論を展開しているからだ。

 

飲茶さんはこう書いている。

 

つまり、「死の延期(衣食住、医療、治安)」というプレゼント欲しさに、誰もが社会の奴隷となり、社会の継続に人生を費やすこと(労働のみじめさを甘受すること、やりたくもないことに貴重な時間を消費すること)を当たり前(常識)と思うようになってしまったのだとボードリヤールは指摘するのである。(p329)

 

では、そんな社会を打破する存在がいるのか?

 

いるのである。

 

ニートだ。

 

すなわち、ニートこそが、記号消費社会における唯一の希望の光であり、かつ、現在に存在する唯一の哲学者なのである(現代哲学の系譜を受け継ぐ、今の自称哲学者たちは、しょせん言語ゲームの中で相変わらずの言葉をグルグル回しているだけなのだから決して哲学者ではない。言語ゲーム、脱構築、記号消費社会……。前時代の偉大な哲学者が生み出した自己完結システム……。それらを乗り越えようとする気概と意思を持たぬ者は、誰一人として新時代の哲学者とは呼べないのだ)。(p332)

 

詳しくはもちろん、本書を読んで確認していただきたい。

 

[最後に]

世界でいちばん売れてる本は聖書だ。そして、宗教と同じくらい、人の根底に流れているのは哲学なのだ。

 

「人間がいままで何を考えてきたか、そして、これからどこにいくのか?」を考えるのに哲学の流れの把握はかかせない。ビジネス・芸術・科学の態度を作ってきた根本であるともいえるのだ。

 

読み終わったあとも、興味のある哲学者や考え方に、当たりやすくなっている(原著を買うためにも、索引がついてないことが惜しい)。

 

歴史とともに思想が移り変わっていることは、真理の不在っぷりを示していることにもなる。その意味で、私たちが生活している実態は、何かしらに先駆けて、ひとつの真実であるんだろうなとは思います。

 

それがニートであってもなかろうとも。 

 

 

14歳からの哲学入門 「今」を生きるためのテキスト

 

 

 

 

 

身体への評価が自己評価を超える

今日も5km走った。身体も慣れてきたからタイムを測り出すのもよいと思う。

 

走っているときに気づいた。友人がびっくりするくらい私は自信があるジャンルとないジャンルが分かれている。このまま身体への評価が自分のなかで高まると、身体への自信が、平均的な自己評価を超える。その結果、どうなるかはわからない。そうなる前にBefore・Afterでこの記録をつけておきたい。

 

集中する癖があるのに加えて、集中することそのものが好きだから、将棋の対局中なんて身体なんて邪魔だなあ、精神だけでいいのになあとよく感じていた。

 

存在が、無視できない身体になってきている。自分を大切にすることが自分の身体を大切にすることだとするなら、理屈としては原始的に理解できる。

 

ひとつの実験としてこのまま進めていこう。

 

自分の身体が客観的に価値があるとわかるから大切にするのだろうか。

 

どちらかと言えば、走ることが身体を意識に上らせているのと、目標の達成のためのパートナーであることが今回は本質的に大きい。

台風と筋トレ

台風が多いのもあって、外に出て走れていない。

 

家で靴下を履いているというのに、何もしないのも癪だから、筋トレをすることにした。

 

走るための筋肉は、走るだけではまんべんなくはつかないらしい。

 

度付きのゴーグルも買った。家では筋トレ、外では泳いでまとまった身体にしていきたい。

 

筋トレは昔から嫌いだ。中学生のときには「筋肉をつけすぎると背が伸びなくなる」と聞いて、部活動のメニューはサボっていた。

 

いちばん筋肉がついた時期って、田舎に帰っていたときに吹雪のなか毎日雪かきをしていたときだと思う。自然と仲良くするというお題目が嫌になるくらいのホワイトアウトもあるなか、道路脇の雪を早朝どけていたら、異常なくらい腕の力がついた。

 

ついた筋肉は維持するためのトレーニング量がまた必要になるから、他の活動をしているあいだにすっかり衰えてしまったけれどあのときくらいまでまた鍛えたい。

 

 

 

生きてはいけないという感覚

また自転車の調整をしてもらった。トライアスロン、本当に出る準備をしている。今年中には1回走る予定。太宰治の麻の着物じゃないけど、未来に予定があることに励まされることもある。筆頭は、音楽のライブチケット。楽しみに待つということは、幸福以外のなにものでもない。

 

小学生のころ、「目をつぶった瞬間に20才くらい一気に歳を取ってないかな。その間の記憶は一切思い出せないとして」という遊びをよく授業中の暇つぶしにしていた。

 

ある朝、目を覚ますといきなり80才になる話でもいい。洋服に着替えて、電車に乗って町に出る。老い先は短いが、私のことを誰も知る人はいない。私はそこで新しい人生を始める。そんなことを考えていた。

 

気を抜くと生きている感覚を忘れる。生きているってなんだっけ?となる。生きていけるのかと不安になることもある。

 

将来に対する不安は、誰でも何度かは覚えがあると思う。でも、この種類の不安で、気分を悪くする必要もないのではないか。「生きていけないという感覚のままで居続けること」を、人間は実は行っていない。すぐに行動に出たり、さらにネガティブな感情を引き起こしたりする。

 

生きてはいけない不安→(だから)→自らを粗末にする

 

生きてはいけない不安→(だから)→明日に絶望する 

 

というパターンをいくつか見てきたし、小さいころはそういう経験もあったから、ここでさらに考えていくと、「不安だから」は理由になってないと思う。ただ不安な状態をキープできないだけなのではないか。

 

不安なままでいることができる能力をネガティブケイパビリティという。正確には、「はっきりしないあやふやな状態を、理解しないまま解決しないまま維持しとどまり続けることができる能力」。

 

生きてはいけないという不安にとどまり続けてみると、どう考えても、<だから>という順接でいつも思考が飛躍していることがわかる。不安とははっきりしない不明瞭の極地だ。そこにいることは辛いけど、とどまっていても何も起こるわけではない。

 

生きていけるかわからないなら、わからないままでそのまま生きてみるのもいいんじゃないかと思っている。

 

 不安という感情には弱点があって、じぃっと見つめ続けるとそれだけで霧散してしまう。生きてはいけない感覚があるからといって、だからなんだというのだ? 暗く見える海だって入ってみれば温かいかもしれないじゃないか。

 

他人より経験が遅い

たびたび世間にまだついていけてないなと感じる。

 

エアコンの「ドライ」の意味が21歳までわかってなかった。茅ヶ崎を友人の名前と似てるからか「しがさき」とずっと読んでいた。銀行のキャッシング機能を知ったのも1年前だった。

 

大学に入るのも1年遅れたし、中学3年生になっても「安室奈美恵って誰?」となっていたのはクラスで私1人だけだったと思う。

 

これからも他人に遅れを取り続けて生涯を終えるのではないか。そんな考えがある。ただ、不安ではない。いちおう、心のどこかに「自分のやりたいことに追いつけてるから、まあいっか」という気持ちがある。

 

海外の人とコミュニケーションができるから留学はしてよかった。小学生のときから本を読み漁り、高校からは映画と音楽にも熱中した。将棋を始めていたし、料理も大学のときにハマった。

 

書いてみてわかることは、私は小学生のときからすでに、生活の趣味が老後なのだ。おかげで、趣味にお金がかからない。本も、映画も、音楽も、ゲームも、料理も、世間でお金がかかる趣味と思われているものより、安く楽しむことができる。

 

この頃はランニングを始めた。これもお金がかからない。自分の身体を使って走るだけだ。でも、奥がとてつもなく深い。ゆくゆくはトライアスロンの大会にも出てやろうと画策している。

 

死ぬまでに何度も「ああ、なってないなあ」と世間への遅れを感じるのだろう。冠婚葬祭の礼儀やビジネスマナーは生きているのだからどんどん詳しくはなる。でも、他人から今後も「知らないこと」にびっくりされると思う。昨日なんか自転車の右ブレーキが前輪にかかることも忘れていた。

 

知らなかったことを嘆いても何も変わらない。知らないことがあることを自覚していけばいい。大切なのは、知らないことを始めるときに人に頼れるかどうか、そういうところに本質があるのではないか。

 

 

オタクは知識顕示欲のタイミングずらすだけで話が上手になる

いかに自分に知識があるかを披露するのに必死になってしまうときがある。

 

「そういう話でしたら、〜という事例がありまして」とか、もっとオタクで例えるなら「あの監督って他の作品だと〜だから、今回の声優さんは〜だったりして」とか。

 

オタク同士ではよく「お前これ知ってる?」合戦が繰り広げられる。そのノリで日常会話をしていると、質問に答えるのではなく、自分の知識をとにかく関連付けして返してしまいがちだ。話を聞いてないで、自分がいかに知識があるかの防衛戦をする。

 

そんなとき、知識顕示欲のタイミングをずらすだけで話が上手い人みたいに見える。

 

まず相手の話を聞き、返しに抽象度高めのことを言って、最後にここで知識をひけらかすのだ。

 

脊髄反射で自分の知識を言うのではなく、相手の質問の返答として具体例を言う。

 

「シンゴジラ撮ってた庵野さんが昔作ったエヴァンゲリオンってどんな作品なの?」(質問)

 

「衒学的と言われていますね」(抽象的)

 

「どういうこと?」

 

「そう思える点としては〜」(具体例、ここで知識の顕示)

 

文脈だけ用意してあげれば、オタクが夢中になって具体的なことを言いまくるのも悪くない。だから、いちばん大事なのは、もしかしたら相手の話を黙って最後まで聞けるかどうかなのかもしれない。

 

 

 

 

腕時計を本当によくなくす

腕時計をとにかくなくす。電車、温泉、友人の家。いたるところで忘れる。高い時計を買う気になれないのはどうせ紛失してしまうからというのが大きい。

 

ヘッドホンもなくす。イヤホンもなくす。手袋もマフラーも。書いていて多いなあと思う。たぶん、身につけるものがダメなのだ。

 

先日も長距離移動から帰ると、腕時計をしていなくてびっくりした。無意識に外してしまっていたようだ。

 

インドを起源とする放浪民ロマは、指輪や足輪に豪華な装飾品を選び、いつでも住む場所を追われてもいいようにしていると本で読んだことがある。逃げ延びた先で物々交換や換金をするためだ。その精神には程遠い。

 

高級腕時計に憧れるときもあった。でも、性なのだし私は私だと切り捨てようと思う。

 

 

【レポート】エンディング産業展に行ってきました

第2回となった日本最大のエンディング産業展(葬儀・供養・埋葬の専門展)*1に行ってきました。

 

レポートなり、思ったことなりはまた別日にして書きたいと思います。

 

ざっと思い出すと、手掘りの墓石を作ってらっしゃる会社様と、遺品整理をしている会社様の方には大変お世話になりました。

 

和歌山や三重あたりの土葬の話や、新潟の骨壷を使わず墓のなかの土に直接骨を撒くやり方の話、石が1000年持つといった話鎌倉時代に仏像担当の宋からの僧に並んで石工の方が新しく花崗岩を使い始めて層塔の丈夫さが上がった話。

 

供養・葬儀・埋葬の役割って、死の周辺で起きることのUXを上げることだと思いました。死そのものに対処するのはあくまで医療かなと。

 

マーケティングの観点でいえば、認知開発にもっと明るい話が聞けたらよかった。葬儀を上げる人視点でのサービスが多かったけれど、今後は残される人視点のものがより増えてくるんじゃないか。モノ自体より、体験をより売っていくようになる気がします。

 

見送られる人、見送る人たち。2つの要素を集団として、記憶に残る形で空間を売っていく。

 

ある程度書いたので、一旦ここで筆を止めたいと思います。

猫の退屈

猫と生活を始めて1ヶ月になる。名前は大臣という。

 

ひょんなことから住むようになった。一緒にいる時間も長いといえば長い。

 

彼の基本サイクルは簡単で、3つだ。寝る→遊ぶ→寝る→遊ぶ。その合間にご飯を食べたりもする。それで3つ。

 

基本があるなら例外も存在する。退屈している時間だ。どうやら、「寝てるは寝てるけど遊びたいは遊びたい」みたいなときに、そんな風に見える。

 

風通しのよいところでいつも横になっているから、最近はたいてい机の上でぐうすか寝ている。側でキーボードを叩いていようものなら、噛まれるかひっかかれる。その場から動くわけではない。その場から届く範囲で、暇つぶしにちょっかいを出される。

 

仕事で小さな子どもたちの見守りをしたことがある。けっこう、猫に行動パターンが似ている。退屈が嫌いなところも。新しいことを学ぶと、いたずらの範囲と種類が増えるところも思えば近い。

 

まだ1ヶ月とはいえ、大臣も子猫からだいぶ大人になった。相変わらずやんちゃなままではあるけれど、子育てもこんな感じなのかなあとたまに考える。

 

 

「人脈」ってなに?

「自分より格上で、自分のことを重視してくれている人」のことを人脈と習った。

 

本当にそうなのか。いつもより明るい道を通って、スーパーに行くあいだに考えた。

 

もちろん、そういった意味もある。けれど、「一緒にいると、いつもと違うことが起こる人」と捉えることもできるなと思った。

 

私は怠惰なので、いつも同じ行動を取る。ときどき、挑戦もする。日常化を楽しむということは、やっぱり日々がいいのだ。

 

一緒にいるだけで、いつもだとできないことができるようになる。Twitterのリスト作り、先延ばしにしてたイベントチケットの決済、自転車のチェーンの調整などなど。

 

孤独な時間はこれから増えていくと、ちょっと前に書いた。断っているし、なんとなくなコミュニケーションは減っていっている。でも、「縁は自然と残るもの」と大学の恩師である大野さんに習ったとおり、根暗な活動をしていても結果として会う人がいる。

 

今度、手伝いをお願いしたいと思う。Twitterのリスト作りがまだなのだ。頼ってみようと思う。

 

 

来ない完璧、来る不完全

よっしゃやるかとブログを始めてみて、いまだに納得がいく更新ってあんまりない。

 

大作を書いてやろうと初期は思っていた。待てども待てどもよいものができない。毎日更新することを重視して内容は二の次にすることにした。いつかは納得がいくものが書けるでしょうと、待っている。

 

自意識過剰な人間にありがちなことがある。書いている間、「こんなものを世の中に出していいのだろうか」と内部批判が続くのだ。更新したとして、ああでもないこうでもないと添削したり非公開にしたり時計の針だけが進んでいく。

 

さすがに気づいた。書いているときに、「本当にこれはよいものなのか悪いものなのか」と考えることそのものが「偽問題」なのだ。

 

偽問題とは、問いが前提として間違っている場合である。問題の設定がおかしいのだ。予めの考えるところが「偽」なのだから、答えも「偽」しかない。たとえ真に思えるものであっても目的地が間違っているからゴールに着いても意味がないのである。

 

書くことの本質は、書かれていることにある。当たり前だ。大事なことは「書けないこと」ではない。迷っていたほうがいいケースは存在しない。乱暴に言ってしまえば、正しいか正しくないかなんて後で考えることだ。

 

 

ナメクジと蜘蛛は殺さない

電動歯ブラシの電池が切れそうだったから、洗面所に行く。テレビからは、日本列島の下のほうに台風が3つもあると音声が聞こえる。

 

洗濯機の前に来たとき踵にぬるっとした冷たい感覚がわいた。完全に踏んでしまう前に足を上げる。猫がウンチでもしたんだろうか。サイズは同じくらいだけど、色が微妙に違う。ナメクジだ。

 

夏に出る虫はたいていは叩いて殺してしまう。蚊には苦い思い出がたくさんあるから筆頭だ。でも、なんだかナメクジならいっかとティッシュでくるんで、家の外に放ってやった。

 

蜘蛛は他の虫を食べてくれるのもあって益虫だという。ナメクジは、残念ながら害虫である。実家にいたとき、土をいじるのが好きで畑を耕していた。ナメクジは、当時最大たる敵であった。トマトの葉など、野菜を食い荒らすのだ。

 

なんで助けたのかはわからない。たぶん、あるとしたら、のそのそとした動きのせいだ。ゆっくりと動くことに憧れがある。スローに動けば、それだけいつもと違うように物が見えるのではないか。そんな敬意があったのだと思う。

挑戦したことが日々になっていく

毎日できるだけ書こうとしている。最近は書評にも挑戦している。

 

挑戦することは、怖い。できればやめたくなる。臆病だから、根っこの部分は変化したくはないんだと思う。

 

生きていることは、心臓が動いて止まるまでのただの期間だ。そんなことを小さな頃は胸に抱えていた。でも、そうではないだろう。

 

子どものときと書いて思い出した。誰にでもできることで、生きるか死ぬかのチャレンジがある。告白だ。

 

「あなたが好きだ」と声に出し、相手の返答を待つ。YESかNOかで運命が変わる。たいていは振られるけど、上手くいくときもある。そこらへんは上手くやれよとは思う。

 

OKが出たら、最も近い他人として、しばらく一緒に過ごすことになる。1ヶ月のこともあるし、一生のこともある。だんだんと、命がけでの挑戦した相手が、身近になっていく。デートに行って、お互いの部屋に行くようになる。食べ物の好みもわかってくる。毎日毎日、挑戦したことが日々に取り込まれて、ゆっくりと日常になっていく。

 

昔より緊張する告白はなくなったけれど、退屈に耐えられなくて、新しいことを始める。ドラムでもベースでも書道でもパルクールでも。

 

始めることは勇気がいる。ダサいだとか笑われるだとか、人にどう思われるかの不安もある。それでも、既存の世界からまったく様変わりすることに挑戦して、日常化をしていくペースを、楽しんでいきたい。理想の世界が少しずつ時間をかけて、現実に溶けて混ざっていく感覚。それは幸福のひとつなんだと思う。

コンビニでついお菓子を買ってしまうのを止める方法

「資格勉強のために節約がしたい。でも、昼休みのときについコンビニでお菓子を買ってしまう」と相談を受けた。

 

止める方法は簡単だ。「お菓子を買うときに、お菓子の値段に30を掛ける」のだ。

 

例えば、ポッキーが1箱168円だとするならば、168*30=5,040円。

 

どういう考え方かというと、「いかにしてお菓子を買う習慣を止めるか」が本質にある。

 

お菓子を買うことに悩む人は、習慣的にお菓子を買っている。つまり、1ヶ月30日、毎日お菓子を買っていることが多い。

 

最初にお菓子を買うときは、「1ヶ月続けてしまう入り口」である。ポッキー1箱買ったときの、習慣の始まりを警戒するのだ。

 

「ポッキー1箱コンビニで買ったら月に5,040円出費してしまう」と考えるようにする。

 

これは他のことでも言える。ダイエット失敗の原因は、「痩せている身体をキープできる生活を続けられないこと」にある。一時的な食事療法や運動療法ではうまくいかない。一生続けられる生活習慣によって、健康な身体を保とうとしないからだ。

 

怖いのは、習慣の始まりだ。反対に言えば、始まりさえ防げればなんとかなる。人間の心理は、手に入れるときよりも、手放すときのほうがコストを感じるようにできている。一度始めてしまうと、なかなかやめられない。もちろん途中からでも、ポッキー1箱の値段に30を掛けるところから始めてみるといいと思う。月5,040円なら新しい参考書も買えてしまう。

【レポート】真山は永遠 / 『羽海野チカの世界展〜ハチミツとライオンと〜』

『羽海野チカの世界展〜ハチミツとライオンと〜』観てきました。最終日でした。場所は池袋。

 

感想としては、

・サロンパス…

・色美しい

・ネーム、プロットの作り方

 

・サロンパス…

水彩画材の近くに「ひつじゅひんです!」という言葉とともにサロンパスが置いてありました。なんというか、もう本当にご自愛くださいませとしか言えない…。Twitterで「次回はバンテリンも出す」ともおっしゃっていた…。

 

・色美しい

構図もさることながら、色彩がいちばん好きでした。はぐちゃんの服の、赤と青。あの濃い青は忘れない。(正確には藍色と呼ぶのか?) ポイントポイントで黒が効果的に使われていて、あんなに黒って画面を引き締めるんだーと驚きがありました。

 

・ネーム、プロットの作り方

8分割でブラッシュアップしていくネームの作り方は、初めて拝見しました。そして何より、ノートに構図を取っているときのメモに「嘘がないこと」「ずるいところがないこと」と2つ書いてあることにいちばん驚きました。

 

私は人の思考、人が何を考えどういうプロセスで進めていくかが、どうしても気になります。羽海野先生の描くことに対する想い、考え方に強く惹きつけられました。

 

 

原画、羽海野先生がどういうふうに作品を作り上げていくのかを見ることができて、嬉しかったです。

 

やっぱり、真山は永遠です。本が好きです。マンガも大量に読んできました。でも、真山のイメージはなくならないんですよね。キャラクターが他にない。真山って本当に人間くさい。