【レポート】アダルトVRエキスポに行ってきました

adult-vr.jp

 

1991年8月6日世界初のWebサイトを、CERNのティム・バーナーズ=リーが作ってから、エロを原動力としてインターネットは発展をしてきました。

 

今後マーケット規模も大きくなるのは目に見えています。1500人以上とも言われた応募抽選をくぐり抜け、8月27日、アダルトVRエキスポに行ってきました。

 

おおざっぱに、Oculus Rift、HTC ViveなどのVRゴーグルをつける形の出展が5割。既存のアダルトグッズを振動や音声などで拡張した出展が5割といったところでした。

 

参加者も開発者も運営側も、みんないい意味で情熱的でした。コミュニティ的にめちゃくちゃおもしろいです。

 

2016年はVR元年と呼ばれています。

 

参加した感じ、

 

1.Unity(アダルトVRのプラットフォーム)

2.VR用ヘッドマウントディスプレイ

3.VRアダルトグッズ

 

の3点が安価で揃うのはまだ時間がかかりそうです。

 

まだ年月が必要だといっても、品質(エロさ)はすでに商品としては十分なものになっています。やばすぎて写真は選定をしたうえで後日この記事にアップしますが、コンテンツの普及スピードはお金がこれからどれだけの規模で入るかの問題なのかなと。

 

マーケット的には、雑誌、映像、風俗などの既存市場がどれくらいアダルトVRに合わせていくかの観点になります。普及までは10年くらいの長い目がいる体感でした。そこまでアダルトVRと既存産業は喰い合う感じにはならないでしょう。

 

最終的な環境としては、

 

1.購買データ、IoTへの反応データを人工知能が食べる

2.人工知能が解析してアダルトIoTグッズに反映する

3.反応したユーザーの結果をまた人工知能が食べて反映する

 

の繰り返しになると思います。

 

人工知能が今回の出展ではまだ見られませんでした。今後、アダルトVR用の人工知能が出てくると思います。

 

人工知能がアダルトVRをどう変えるかというと、「ストーリーがユーザー個別に変化していくこと」になります。

 

当然ですが、アダルト映像は放送する前から物語の展開が決まっています。人工知能が、ユーザー別にIoTデバイスへフィールドバックをしていくということは、「ユーザーごとに好みのストーリーになること」になります。

 

つまり、人工知能が登場することになると、「ひとつの人格とセックスしている感」がより本当に強くなります。皮肉ですが、日本の少子化が止まることはなさそうです。

 

 

最後に個人的なことを言うと、プロダクトのなかだとONASIS(オナシス)がいちばんおもしろかったです。あれは体験しないと魅力がわからない典型だと思います。まさか振動が「本当らしさ」の秘訣だったなんて…。

【映画レビュー】HAPPY ENDから見る喪失しない新海誠 / 新海誠『君の名は。』

www.kiminona.com

 

新海作品の本質は<断絶>だ。

 

特に、距離と記憶の2つ。


『君の名は。』では、この2という数字が重要になる。

今作では、全体を通して「2つのものが1つになる」というテーマが貫かれている。

  


話を戻そう。新海監督の根本にあるのは<断絶>である。

 

どの作品でも「距離もしくは記憶の補完が、ラストシーンまで決してなされない」のである。新海作品のルールといってもいい。

 

・『ほしのこえ』では、長峰 美加子と寺尾 昇は記憶の共有をしているが、目に見える形で2人が再会することは最後までない。(距離の断絶、記憶の補完)

 

・『雲のむこう、約束の場所』では、藤沢 浩紀は沢渡 佐由理と再会して終わるが、沢渡 佐由理のもうひとつの世界の記憶は戻らない。(距離の補完、記憶の断絶)

 

・『言の葉の庭』では、秋月 孝雄と雪野 百香里は記憶は共有しているが、映像では最後離れ離れになっている。(距離の断絶、記憶の補完)

 

しかし、今作では、立花 瀧と水守 三葉は最後に再会をしている。2人が話し合うことも含めると、その場で記憶も共有することになる。そう可能性が示されている。『秒速5センチメートル』だったら確実に話かけないですれ違っているというのに。

 

『君の名は。』のラストは事件なのだ。

 

なぜこのようなことが起こるかというと、今作のテーマである「2つのものが1つになる」が大きいのではないかと思う。

 

水守家の歴史が想起されるところでは、三葉と四葉の誕生からいままでが描かれるが、遺伝子情報が書き込まれているDNAの構造は2重らせんである。2本の鎖がお互いを補うように絡まっているのだ。ちょうど、Nature誌にDNAの形状を発表した研究者もワトソンとクリックという2人だった(さすがにこれはできすぎだけれども)。

 

新海作品では、バイオリンや携帯電話、靴などのツールがひとつの示唆になっていることがある。

 

水守家に代々伝わっているひもは、<結>としてのひとつの象徴なのだ。<断絶>を打ち消すのは<結>にほかならない。補完なのだ。作中では三葉は髪を編んでるシーンもあるし、四葉は髪をツインテールにして縛っている(ゴムの色は赤と青で分かれている)。

 

三葉が噛んで発酵させた酒を、瀧が自らの身体に取り入れることも、片割れどきで補完がされるのも今回のテーマが<結>だからに他ならない。おそらく、記憶と距離の<断絶>が両方ともラストまで示されないのは、新海作品のなかでも今作だけなのではないだろうか。

 

そういった意味で今回は衝撃をうけた。「最後別れないのかよ!」って映画館の座席でツッコミをいれたほどである。階段でお互いを確認したときなんてガッツポーズして「よーし!そのまま離れ離れになれー!なれー!」と自分でも意味のわからないことを心のなかで言っていたのに。そのまま話しかけるなんてびっくりした。「新海作品じゃなくね!?」とまで思いエンドロールで呆然としていた。

 

 

新海作品を観始めて10年になる。初めて観たのは渋谷の小さな単館系の映画館だった。衝撃を受けて、大学選びも新海がいた大学を受験したほどだ。そして、たぶん今作のような形で新海作品でびっくりすることは二度とないんじゃないだろうか。

 

最後に言っておきたいことは、新海は「ポスト宮﨑駿」と呼ばれて久しいが、実は『君の名は。』で『天空の城ラピュタ』の興行収入をすでに抜いている*1。ラピュタはジブリワーストとはいえ11億円だ*2。今作ではすでに12億円を超えている。どこまでいくかワクワクしている。

 

最近は『雲のむこう、約束の場所』のときの感傷的な感じ、喪失した感じはなくなってきていると思う。雲の向こうなんて最初のモノローグから「失っている感じ」ばりばりだった。

 

隕石の事故は、やっぱり3.11を彷彿とさせる。そこに新海は、「今作のような形があったら」とひとつの希望を見たのではないだろうか。住民が一丸となって危機に対処する展開に<結>を当てたのであろうし、三葉と父との協力からそれは始まっている。

 

新海作品に流れる<断絶>を、3.11の<結>が補完したのであれば、おそらく今回のストーリー展開はこれ限りである。でも、なぜかそんな気がしない。今後もHAPPY ENDの喪失しない新海誠になっていくのではないか。

 

変化に、寂しさはある。『君の名は。』のなかに新海特有の喪失感があるとすれば、それは作風の変化そのものにあるのかもしれない。 

 

 劇場アニメーション『言の葉の庭』 DVD

【会計】国の財政から考える「今日よりもちょっと悪い明日を生き続けること」

10年後がどうなるだろうかと考える。たぶん、経済はいまより悪くなっている。

 

豊かさは「選択肢として、いくつもの手段を選ぶことができること」だとする。Aを選ぼうがBを選ぼうがCを選ぼうが、それぞれにメリットがある。魅力的だと思うものピンとくるものを決めることができる。

 

経済が悪化すれば、国は弱くなる。豊かさの反対の意味があるとすれば、貧しさだ。「選択肢として、せいぜい2択で、どちらを選んでも今日より悪くなること」を言うのだと思う。

 

おおざっぱに、この国の支出を分類しよう。社会保障についてのもので3割、国債の償還に2.5割、地方に渡すお金で1.5割だ。合計すると7割だから相当のものになっている。

 

そのうち、社会保障費と国債について考えると、年々額が増えていると言ってもいい。少なくとも、増加に歯止めがかかることはないだろう。

 

国の収入は、これから劇的に増えることはない。平成に入ってからは上がったり下がったりしているけれど、古き良き時代に戻ることはないと思ったほうがいい。

 

こういうときの場合、努める方法は2つある。「収益増加」と「経費削減」だ。残念ながら前者のほうは有力じゃないから、後者のほうを策として行うことになる。

 

支出のいちばん大きなところは3割の社会保障費だ。内訳は、年金償還が5割、医療費が3割、福祉その他が2割だ。メスが入るならこの3つのうちのどこかになると思う。

 

はっきりいってしまうと、前提としてダメ元なのだ。削ったとしても、2000億3000億くらいでは防壁にならない。一般会計でもざっくり100兆円規模なのだ。それと比べてしまうと小さな額になる。つまり、将来的に「抜本的な改革」というのも存在しないところから考えていくのが自然なのだ。

 

悲観的なことを言いたいわけじゃない。でも、数字だけ見れば悪化し続けていく。「今日よりもちょっと悪い明日を生き続けること」についてはこれからも考えていきたい。

 

もし活路があるとするならば、生活を変えていくことだと思う。というのも、財政の前提は覆せないからだ。「いまのままの私でいい」という思想だと、国の財布が詰みそうなんだから、個人の生活も勝手に行き止まりになる。

 

悪化という形ではあるけど、「これから国は変わっていくんだ」と頭に入れてこれからの10年に適応していくことは間違いなく有効だ。とか言ってるとまあ、若者のなんとか離れとか指さされるのだろうけれども。

 

年金や投票層の問題で、高齢者を憎んでも的外れなのも言っておきたい。いまの社会のインフラを作ったのは先人たちだ。お陰様で世界で異様なレベルで、治安がよくって、美味しくて栄養のあるご飯が安く食べれる国になっている。彼らと 協力して国に働きかけていくくらいじゃないと虚しいだけだ。

 

 10年後、私たちの目の前にある選択肢はどんなものであれ、いまより「数が少ないし、どれもパッとしないもの」になるだろう。どう選択しようが昨日よりマシになることはない。

 

できることとしては、先を見据えての適応の準備。「なにに幸せを感じ、なにを幸せとするか?」を明確にしておいたり、積み重ねたら資産になるものに投資を始めたりしておくこと。教養でも人脈でも、なんでもいい。

 

最後にあるとすれば私だって怖いが、経費削減のときに、可能な限り合意の上でそれが行われるようにする態度なのではないだろうか。

 

【参考リンク】

1.

平成27年度予算の概要:予算委員会調査室(http://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/keizai_prism/backnumber/h27pdf/201513704.pdf)

2.

一般会計税収、歳出総額及び公債発行額の推移 : 財務省

3.

社会保障給付費の推移:厚生労働省(http://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/hokabunya/shakaihoshou/dl/05.pdf)

4.

日本国債 - Wikipedia

 

 

【書評】14歳中学生に「ニートは社会の希望だよ」と説明してみる / 飲茶『14歳からの哲学入門』

 

 

 

まれに見る「ざっくり解説本」です。良書。

 

哲学・思想を書いた本でここまで「わかりやすさ」に振り切った本って存在しないんじゃないでしょうか。

 

[この本ってどんな本?]

・哲学の歴史がざっくりわかる、人にも話せるようになる本です。

・ネットスラングありありで、口調もラノベっぽい。哲学書なのに途中でたまに笑う。

・読み終わったらなぜか本書を読んでない人より、哲学についての基礎教養がしっかりついている。

 

[どんな人におすすめ?]

・「実存」とか「構造主義」とかって何? 調べたけどわかんねー!と疑問を持つ中学生
・人間の思考心理の癖を知って、マネジメントに活かしたい経営者
・哲学の基礎的な態度を網羅する、入門書が欲しい大学1年生

・仕事はできるようになったけど、教養に不安が出てきた社会人3年目
 

[飲茶さんってどんな人?]

作者の飲茶さんは、一言でいうと、「ネットで有名になった哲学系の人」。おそらく「史上最強の〜シリーズ」は本屋さんで見たことがある方もいるのではないだろうか。

 

表紙、目立つから。

 

 

 

飲茶さんが経営者というのは、本書が成立してる大事な要素だと思う。科学者が哲学の本を書いたら、ここまでくだけてわかりやすい解説には、立場上踏み込みづらいからだ。

  

[哲学ってそもそも何?]

本書では、「人間の認識は正しいの? なんで正しいの? 限界はあるの?」といった認識論を中心として進んでいく。

 

「そもそも哲学ってなんなの?」という疑問に対しては、以下のような記述がある。

 

「古い常識を疑って今までにないものの味方を発見し、新しい価値観、世界観を創造する学問」(p3) 

 

 「哲学とは、『価値』について考えることである。今までにない新しい『価値』を生み出したり、既存の『価値』の正体を解き明かしたりすることである」(p40)

 

哲学者のキャラクターにも焦点を当てつつ、解説は進む。なんというか、さすが既存の価値観をぶち壊してきた哲学者たち。一般的な中二病のイメージすら、完全に超えている人たちばかりだ。

 

[いちばんの見どころは?]

6章「これからの哲学」がおすすめだと思っている。紹介してきた哲学者の流れを引き継いだ上で、飲茶さんが持論を展開しているからだ。

 

飲茶さんはこう書いている。

 

つまり、「死の延期(衣食住、医療、治安)」というプレゼント欲しさに、誰もが社会の奴隷となり、社会の継続に人生を費やすこと(労働のみじめさを甘受すること、やりたくもないことに貴重な時間を消費すること)を当たり前(常識)と思うようになってしまったのだとボードリヤールは指摘するのである。(p329)

 

では、そんな社会を打破する存在がいるのか?

 

いるのである。

 

ニートだ。

 

すなわち、ニートこそが、記号消費社会における唯一の希望の光であり、かつ、現在に存在する唯一の哲学者なのである(現代哲学の系譜を受け継ぐ、今の自称哲学者たちは、しょせん言語ゲームの中で相変わらずの言葉をグルグル回しているだけなのだから決して哲学者ではない。言語ゲーム、脱構築、記号消費社会……。前時代の偉大な哲学者が生み出した自己完結システム……。それらを乗り越えようとする気概と意思を持たぬ者は、誰一人として新時代の哲学者とは呼べないのだ)。(p332)

 

詳しくはもちろん、本書を読んで確認していただきたい。

 

[最後に]

世界でいちばん売れてる本は聖書だ。そして、宗教と同じくらい、人の根底に流れているのは哲学なのだ。

 

「人間がいままで何を考えてきたか、そして、これからどこにいくのか?」を考えるのに哲学の流れの把握はかかせない。ビジネス・芸術・科学の態度を作ってきた根本であるともいえるのだ。

 

読み終わったあとも、興味のある哲学者や考え方に、当たりやすくなっている(原著を買うためにも、索引がついてないことが惜しい)。

 

歴史とともに思想が移り変わっていることは、真理の不在っぷりを示していることにもなる。その意味で、私たちが生活している実態は、何かしらに先駆けて、ひとつの真実であるんだろうなとは思います。

 

それがニートであってもなかろうとも。 

 

 

14歳からの哲学入門 「今」を生きるためのテキスト

 

 

 

 

 

身体への評価が自己評価を超える

今日も5km走った。身体も慣れてきたからタイムを測り出すのもよいと思う。

 

走っているときに気づいた。友人がびっくりするくらい私は自信があるジャンルとないジャンルが分かれている。このまま身体への評価が自分のなかで高まると、身体への自信が、平均的な自己評価を超える。その結果、どうなるかはわからない。そうなる前にBefore・Afterでこの記録をつけておきたい。

 

集中する癖があるのに加えて、集中することそのものが好きだから、将棋の対局中なんて身体なんて邪魔だなあ、精神だけでいいのになあとよく感じていた。

 

存在が、無視できない身体になってきている。自分を大切にすることが自分の身体を大切にすることだとするなら、理屈としては原始的に理解できる。

 

ひとつの実験としてこのまま進めていこう。

 

自分の身体が客観的に価値があるとわかるから大切にするのだろうか。

 

どちらかと言えば、走ることが身体を意識に上らせているのと、目標の達成のためのパートナーであることが今回は本質的に大きい。

台風と筋トレ

台風が多いのもあって、外に出て走れていない。

 

家で靴下を履いているというのに、何もしないのも癪だから、筋トレをすることにした。

 

走るための筋肉は、走るだけではまんべんなくはつかないらしい。

 

度付きのゴーグルも買った。家では筋トレ、外では泳いでまとまった身体にしていきたい。

 

筋トレは昔から嫌いだ。中学生のときには「筋肉をつけすぎると背が伸びなくなる」と聞いて、部活動のメニューはサボっていた。

 

いちばん筋肉がついた時期って、田舎に帰っていたときに吹雪のなか毎日雪かきをしていたときだと思う。自然と仲良くするというお題目が嫌になるくらいのホワイトアウトもあるなか、道路脇の雪を早朝どけていたら、異常なくらい腕の力がついた。

 

ついた筋肉は維持するためのトレーニング量がまた必要になるから、他の活動をしているあいだにすっかり衰えてしまったけれどあのときくらいまでまた鍛えたい。

 

 

 

生きてはいけないという感覚

また自転車の調整をしてもらった。トライアスロン、本当に出る準備をしている。今年中には1回走る予定。太宰治の麻の着物じゃないけど、未来に予定があることに励まされることもある。筆頭は、音楽のライブチケット。楽しみに待つということは、幸福以外のなにものでもない。

 

小学生のころ、「目をつぶった瞬間に20才くらい一気に歳を取ってないかな。その間の記憶は一切思い出せないとして」という遊びをよく授業中の暇つぶしにしていた。

 

ある朝、目を覚ますといきなり80才になる話でもいい。洋服に着替えて、電車に乗って町に出る。老い先は短いが、私のことを誰も知る人はいない。私はそこで新しい人生を始める。そんなことを考えていた。

 

気を抜くと生きている感覚を忘れる。生きているってなんだっけ?となる。生きていけるのかと不安になることもある。

 

将来に対する不安は、誰でも何度かは覚えがあると思う。でも、この種類の不安で、気分を悪くする必要もないのではないか。「生きていけないという感覚のままで居続けること」を、人間は実は行っていない。すぐに行動に出たり、さらにネガティブな感情を引き起こしたりする。

 

生きてはいけない不安→(だから)→自らを粗末にする

 

生きてはいけない不安→(だから)→明日に絶望する 

 

というパターンをいくつか見てきたし、小さいころはそういう経験もあったから、ここでさらに考えていくと、「不安だから」は理由になってないと思う。ただ不安な状態をキープできないだけなのではないか。

 

不安なままでいることができる能力をネガティブケイパビリティという。正確には、「はっきりしないあやふやな状態を、理解しないまま解決しないまま維持しとどまり続けることができる能力」。

 

生きてはいけないという不安にとどまり続けてみると、どう考えても、<だから>という順接でいつも思考が飛躍していることがわかる。不安とははっきりしない不明瞭の極地だ。そこにいることは辛いけど、とどまっていても何も起こるわけではない。

 

生きていけるかわからないなら、わからないままでそのまま生きてみるのもいいんじゃないかと思っている。

 

 不安という感情には弱点があって、じぃっと見つめ続けるとそれだけで霧散してしまう。生きてはいけない感覚があるからといって、だからなんだというのだ? 暗く見える海だって入ってみれば温かいかもしれないじゃないか。

 

他人より経験が遅い

たびたび世間にまだついていけてないなと感じる。

 

エアコンの「ドライ」の意味が21歳までわかってなかった。茅ヶ崎を友人の名前と似てるからか「しがさき」とずっと読んでいた。銀行のキャッシング機能を知ったのも1年前だった。

 

大学に入るのも1年遅れたし、中学3年生になっても「安室奈美恵って誰?」となっていたのはクラスで私1人だけだったと思う。

 

これからも他人に遅れを取り続けて生涯を終えるのではないか。そんな考えがある。ただ、不安ではない。いちおう、心のどこかに「自分のやりたいことに追いつけてるから、まあいっか」という気持ちがある。

 

海外の人とコミュニケーションができるから留学はしてよかった。小学生のときから本を読み漁り、高校からは映画と音楽にも熱中した。将棋を始めていたし、料理も大学のときにハマった。

 

書いてみてわかることは、私は小学生のときからすでに、生活の趣味が老後なのだ。おかげで、趣味にお金がかからない。本も、映画も、音楽も、ゲームも、料理も、世間でお金がかかる趣味と思われているものより、安く楽しむことができる。

 

この頃はランニングを始めた。これもお金がかからない。自分の身体を使って走るだけだ。でも、奥がとてつもなく深い。ゆくゆくはトライアスロンの大会にも出てやろうと画策している。

 

死ぬまでに何度も「ああ、なってないなあ」と世間への遅れを感じるのだろう。冠婚葬祭の礼儀やビジネスマナーは生きているのだからどんどん詳しくはなる。でも、他人から今後も「知らないこと」にびっくりされると思う。昨日なんか自転車の右ブレーキが前輪にかかることも忘れていた。

 

知らなかったことを嘆いても何も変わらない。知らないことがあることを自覚していけばいい。大切なのは、知らないことを始めるときに人に頼れるかどうか、そういうところに本質があるのではないか。

 

 

オタクは知識顕示欲のタイミングずらすだけで話が上手になる

いかに自分に知識があるかを披露するのに必死になってしまうときがある。

 

「そういう話でしたら、〜という事例がありまして」とか、もっとオタクで例えるなら「あの監督って他の作品だと〜だから、今回の声優さんは〜だったりして」とか。

 

オタク同士ではよく「お前これ知ってる?」合戦が繰り広げられる。そのノリで日常会話をしていると、質問に答えるのではなく、自分の知識をとにかく関連付けして返してしまいがちだ。話を聞いてないで、自分がいかに知識があるかの防衛戦をする。

 

そんなとき、知識顕示欲のタイミングをずらすだけで話が上手い人みたいに見える。

 

まず相手の話を聞き、返しに抽象度高めのことを言って、最後にここで知識をひけらかすのだ。

 

脊髄反射で自分の知識を言うのではなく、相手の質問の返答として具体例を言う。

 

「シンゴジラ撮ってた庵野さんが昔作ったエヴァンゲリオンってどんな作品なの?」(質問)

 

「衒学的と言われていますね」(抽象的)

 

「どういうこと?」

 

「そう思える点としては〜」(具体例、ここで知識の顕示)

 

文脈だけ用意してあげれば、オタクが夢中になって具体的なことを言いまくるのも悪くない。だから、いちばん大事なのは、もしかしたら相手の話を黙って最後まで聞けるかどうかなのかもしれない。

 

 

 

 

腕時計を本当によくなくす

腕時計をとにかくなくす。電車、温泉、友人の家。いたるところで忘れる。高い時計を買う気になれないのはどうせ紛失してしまうからというのが大きい。

 

ヘッドホンもなくす。イヤホンもなくす。手袋もマフラーも。書いていて多いなあと思う。たぶん、身につけるものがダメなのだ。

 

先日も長距離移動から帰ると、腕時計をしていなくてびっくりした。無意識に外してしまっていたようだ。

 

インドを起源とする放浪民ロマは、指輪や足輪に豪華な装飾品を選び、いつでも住む場所を追われてもいいようにしていると本で読んだことがある。逃げ延びた先で物々交換や換金をするためだ。その精神には程遠い。

 

高級腕時計に憧れるときもあった。でも、性なのだし私は私だと切り捨てようと思う。

 

 

【レポート】エンディング産業展に行ってきました

第2回となった日本最大のエンディング産業展(葬儀・供養・埋葬の専門展)*1に行ってきました。

 

レポートなり、思ったことなりはまた別日にして書きたいと思います。

 

ざっと思い出すと、手掘りの墓石を作ってらっしゃる会社様と、遺品整理をしている会社様の方には大変お世話になりました。

 

和歌山や三重あたりの土葬の話や、新潟の骨壷を使わず墓のなかの土に直接骨を撒くやり方の話、石が1000年持つといった話鎌倉時代に仏像担当の宋からの僧に並んで石工の方が新しく花崗岩を使い始めて層塔の丈夫さが上がった話。

 

供養・葬儀・埋葬の役割って、死の周辺で起きることのUXを上げることだと思いました。死そのものに対処するのはあくまで医療かなと。

 

マーケティングの観点でいえば、認知開発にもっと明るい話が聞けたらよかった。葬儀を上げる人視点でのサービスが多かったけれど、今後は残される人視点のものがより増えてくるんじゃないか。モノ自体より、体験をより売っていくようになる気がします。

 

見送られる人、見送る人たち。2つの要素を集団として、記憶に残る形で空間を売っていく。

 

ある程度書いたので、一旦ここで筆を止めたいと思います。

猫の退屈

猫と生活を始めて1ヶ月になる。名前は大臣という。

 

ひょんなことから住むようになった。一緒にいる時間も長いといえば長い。

 

彼の基本サイクルは簡単で、3つだ。寝る→遊ぶ→寝る→遊ぶ。その合間にご飯を食べたりもする。それで3つ。

 

基本があるなら例外も存在する。退屈している時間だ。どうやら、「寝てるは寝てるけど遊びたいは遊びたい」みたいなときに、そんな風に見える。

 

風通しのよいところでいつも横になっているから、最近はたいてい机の上でぐうすか寝ている。側でキーボードを叩いていようものなら、噛まれるかひっかかれる。その場から動くわけではない。その場から届く範囲で、暇つぶしにちょっかいを出される。

 

仕事で小さな子どもたちの見守りをしたことがある。けっこう、猫に行動パターンが似ている。退屈が嫌いなところも。新しいことを学ぶと、いたずらの範囲と種類が増えるところも思えば近い。

 

まだ1ヶ月とはいえ、大臣も子猫からだいぶ大人になった。相変わらずやんちゃなままではあるけれど、子育てもこんな感じなのかなあとたまに考える。

 

 

「人脈」ってなに?

「自分より格上で、自分のことを重視してくれている人」のことを人脈と習った。

 

本当にそうなのか。いつもより明るい道を通って、スーパーに行くあいだに考えた。

 

もちろん、そういった意味もある。けれど、「一緒にいると、いつもと違うことが起こる人」と捉えることもできるなと思った。

 

私は怠惰なので、いつも同じ行動を取る。ときどき、挑戦もする。日常化を楽しむということは、やっぱり日々がいいのだ。

 

一緒にいるだけで、いつもだとできないことができるようになる。Twitterのリスト作り、先延ばしにしてたイベントチケットの決済、自転車のチェーンの調整などなど。

 

孤独な時間はこれから増えていくと、ちょっと前に書いた。断っているし、なんとなくなコミュニケーションは減っていっている。でも、「縁は自然と残るもの」と大学の恩師である大野さんに習ったとおり、根暗な活動をしていても結果として会う人がいる。

 

今度、手伝いをお願いしたいと思う。Twitterのリスト作りがまだなのだ。頼ってみようと思う。

 

 

来ない完璧、来る不完全

よっしゃやるかとブログを始めてみて、いまだに納得がいく更新ってあんまりない。

 

大作を書いてやろうと初期は思っていた。待てども待てどもよいものができない。毎日更新することを重視して内容は二の次にすることにした。いつかは納得がいくものが書けるでしょうと、待っている。

 

自意識過剰な人間にありがちなことがある。書いている間、「こんなものを世の中に出していいのだろうか」と内部批判が続くのだ。更新したとして、ああでもないこうでもないと添削したり非公開にしたり時計の針だけが進んでいく。

 

さすがに気づいた。書いているときに、「本当にこれはよいものなのか悪いものなのか」と考えることそのものが「偽問題」なのだ。

 

偽問題とは、問いが前提として間違っている場合である。問題の設定がおかしいのだ。予めの考えるところが「偽」なのだから、答えも「偽」しかない。たとえ真に思えるものであっても目的地が間違っているからゴールに着いても意味がないのである。

 

書くことの本質は、書かれていることにある。当たり前だ。大事なことは「書けないこと」ではない。迷っていたほうがいいケースは存在しない。乱暴に言ってしまえば、正しいか正しくないかなんて後で考えることだ。

 

 

ナメクジと蜘蛛は殺さない

電動歯ブラシの電池が切れそうだったから、洗面所に行く。テレビからは、日本列島の下のほうに台風が3つもあると音声が聞こえる。

 

洗濯機の前に来たとき踵にぬるっとした冷たい感覚がわいた。完全に踏んでしまう前に足を上げる。猫がウンチでもしたんだろうか。サイズは同じくらいだけど、色が微妙に違う。ナメクジだ。

 

夏に出る虫はたいていは叩いて殺してしまう。蚊には苦い思い出がたくさんあるから筆頭だ。でも、なんだかナメクジならいっかとティッシュでくるんで、家の外に放ってやった。

 

蜘蛛は他の虫を食べてくれるのもあって益虫だという。ナメクジは、残念ながら害虫である。実家にいたとき、土をいじるのが好きで畑を耕していた。ナメクジは、当時最大たる敵であった。トマトの葉など、野菜を食い荒らすのだ。

 

なんで助けたのかはわからない。たぶん、あるとしたら、のそのそとした動きのせいだ。ゆっくりと動くことに憧れがある。スローに動けば、それだけいつもと違うように物が見えるのではないか。そんな敬意があったのだと思う。