信用という言葉について
信用という言葉は、未来において契約が果たされるかどうかの考え方なのだなと思う。
信用を得ることは、未来に対して、貯金をしていることに等しい。
信用を失うのはいつも現実においてだ。
いま、私は遅刻をしている。気持ちの整理のため、電車のなかでこれを書いている。
学習にかかる費用がとにかく安くなった
いまだとオンライン英会話も月6,000円からだ。中国語だと7,000円。
プログラミングスクールが1ヶ月の合宿形式で10万円。合気道教室はかかって月1万円。格安で修士が取れる大学も、インターネット上に出てきている。
小さなころから考えると、学習にかかるお金が、比べる気も起きないくらい安くなっている。
はっきりいってしまえば、学習が好きな人の時代になったと思う。経済面から言えば、学習習慣のない人にはつらい100年になる。スキルアップを伴う学習において、お金が言い訳にならなくなった。図書館とオンラインサービスで、なんとかなってしまう。
それでも課題になりつづけるのは、始める精神的なコストなんだと思う。
個人において、なにかを始めるのにベストタイミングなんてものはない。
始めれたら、ほとんどゴールみたいなもんだろう。
しかし、英語の学習コストは、びっくりするぐらい安くなった。投資対効果がよすぎる。
若者のほにゃらら離れとよく言われる。
素直な気持ちとしては、都市部に近いところに住んでるなら、200万かけて(ローン組むとそれ以上だ!)車を買うより、200万円分、学習に使ったほうが長く楽しく生きれるんじゃないかな。
車は10年で乗り換えるけれど、自分には一生乗れる。この世でいちばん持ち運びがきく資産って、たいていは自分だ。
「これで最後だから」というマインドセット
めんどくさいときは「人生でこれやるのも最後だからなあ」と考えることにしている。
同じ物事が起こることは、ありえない。生きているなかでのイベントに、それぞれIDを振ったら、確実に数字がずれる。似ていることを、まったく同一のものと捉えすぎなのだ。
人間の認識は、たしかに、いくつかの無秩序からパターンを見つけるようにできている。でも、だからといって何にでも既視感を覚えるのもおかしい。相手が人間であるなら、なおさらだ。
選択肢からひとつ大事なものを選ぶときも「これが最後の人生だったら、私はなににするだろう?」と考えている。
この思考法はちょっとふざけている。私の人生は、なにが起ころうと私にとって最後の人生だ。それでも、こう考えるほうが選びやすいのだから不思議としかいいようがない。
事前に、33回死んでようが、100万回死んでようが、私の人生はいつだってこれが最後である。
後悔なく生きたいものだ。
このブログの名前が"LASTWORDS"なのは「日記の最終更新は、遺書と一緒なんじゃないか?」という想いから来ている。
いちおう、「今日が最後の更新だったら」という気構えで書いている。
どう逃げても自分は優しいのだと諦める
恩師が来年、教壇に立つ。嬉しいニュースだ。
哲学の師匠でもあるから、ひとつ相談をしてみた。
私は、だいたいいつも「優しい人」として見られる。これが曲者なのだ。
10代の頃からチバユウスケに憧れていた。もし「1日だれかと入れ替われる」なら、チバユウスケと替わりたい。そう思ってここまで過ごしてきた。
ライダースジャケットなんて似合わない。というか、オタクな見た目から離れられない。面倒なので、外見を明るくする気もない。優しそうだと、ほぼほぼ言われる。
優しいことは弱いことじゃない。わかってはいるのだけど、なんというか男らしくない。優しい人は、はっきりしない人なイメージをもっている。優柔不断とは別のものではある。でも親和性は高いと思う。
相談しているうちに諦めがついた。みんながそう言うのであれば、私はある一面を切り取れば、たしかに「優しい」。それは間違いないんだろう。抵抗して偽悪的になっても無駄な気がする。
だから、優しい人として生きることは受け入れよう。ときどき、かっこつけることも続けよう。そんな感じでいいんじゃないか。優しくて、損した記憶もそんなにない。
Programmed
いまはやりたくないことからは引退して過ごしている。
カタツムリより遅いくらいの速度で、「1日これだけはやる」と決めたことをコツコツ片付けていっている。
ふと、ときどき「これは予め、まるで決められていたことのようだな」と感じることがある。
オカルトチックな話をしたいわけではない。運命論、自由意志、受動意識仮説の話をしたいわけでもない。
言いたいことは、自分の認識を司っている部分が「自分の嫌ではないこと」と上手く適合すると、自分が認識したいことに気持よく注意を払えるということだ。たぶん、生きることの喜びってそういうところにあるんだと思う。
「大人な人」ってどんな人?
人それぞれ「大人」のイメージは違うと思う。それでも考えるのは、「大人であろうとする人」は、私のなかで立派な大人である。
私は頭が固い。想像力にも乏しい。ユーモアだけは、持っていたいと願っている。尊敬している人に「にもかかわらず笑う人」が多かったからだ。逆境でも、死にそうでも、理性を忘れない人たちだった。人間の尊厳を、彼らから学んだ。
「こうありたいなと思える人」が自分のイメージする大人だと思っている。「大人であろうとすること」は「尊敬する人のような人間であろうとすること」になる。
真似でつながっていくのが私の大人像だ。いちばん始めに大人だった人は誰なのだろうか? 想像をめぐらせて今日も眠りたい。
「いいことないなあ」と思うときに書く
よくないことがひとつ起きると、連鎖的に過去を悪く評価してしまう。
そうすると、未来も暗くなる。
「ついてないなあ」という気分を補強してしまうようなことを、無意識に選んで認識するようになる。「よかったな」と思えることが、同時に発生していたとしてもだ。気分の恒常性とでも言おうか。
芸術の力ってほんとに偉大で、ユーモアのある映画1本観るだけで考えが変わったりする。「人生変わりました」なんてのは、いままで抱えてきた認識の恒常性が書き換わったのだ。価値観が壊れて新しくなったと言ってもいい。
この世にある強い意気込みはだいたい気のせいだと思っている。そこからつなげていくと、私のいまの「いいことないなあ」という気分も、ただの水面の揺れぐらいである可能性が高い。
「すべては仮説である」と言うわけではない。正気か狂気かを主張するわけでもない。私たちの身の回りには定かでないことがあまりにもあるから、へこんでいたとしても、そんななかのひとつの振動みたいなものだと書いていて思う。
フルマラソンから考える文章の限界速度と限界距離
フルマラソンの訓練にあたり、3時間を切るレベルで走れる人からアドバイスがあった。
「ふたつ平行して進めてください。ひとつは限界速度。これ以上走れないって距離で5km走ってください。次に限界距離。これなら疲れないだろってペースで20km走ってください。交互にやっていくと、次第に20kmを全速力で走れるようになります」
これは文章にも言えて、記入速度と文字数に分けれる。
制限時間を設けて最速で400文字書く訓練。
制限時間を設けずに疲れないくらいで休み休み4000文字書く訓練。
試していこうと思う。
眠いときに書けること
いつも0時までに書いている。眠いときもある。
なにも思いつかない。そんなこともよく発生する。
あいうえお作文でもすればいいじゃないかと自分で書いていた。今日は、そんな気分でもない。時間がだらだらと過ぎていく。眠いから焦りもしない。
時間は止まっている感覚にならないのは、意外と言えば意外か。
夜の砂浜にひとり立っていて、快も不快もなく静かに砂の動きを眺めている感覚だ。暑くもない。寒くもない。死の予感もせず、砂に飽きたら遠くのなんにもなさそうな海の向こうでも見る。風がつよく吹くことなんてない。
時間を気にしなくなるのは、集中しているときだ。眠たくって、急いでもない夜には、時間が目に見えるようだ。雨も降りだした。ラジオからはMCの小さくてコケティッシュな声が聞こえる。
眠いときってそんな感じだ。小さいころから変わらないことだと思う。
「可能性」ってどれくらい可能なの?
人は言葉、単語に対して感覚がある。「月」と言ったら、満月を浮かべる人も三日月を連想する人もいる。それぞれだ。
「可能性」は私にとって力強い言葉だ。学生のころに「可能性の可能性を信じよう」と心に誓った。理由は忘れた。酔っ払っていたのかもしれない。
「可能性」が含んでいる可能性のイメージには、希望がある。そんなことが可能だったのか!と驚かせてくれる夢がある。
今日からは、それに加えて、「想像力」がいつも私の想像を超えてくることを期待しようと思う。
毎日、似たようなことを繰り返していると生きることに飽きていくる。「一度は体験したパターンがまた起こるだけなのではないか」と、うんざりするほどなにもかもに退屈してくる。好奇心が死にかけになる。「これから、一生、私の知らないことはなにも起こらないのではないか」。つらい人には、本当につらい感覚だ。
「想像力」は、つねに私の想像力を超えたところにあって欲しい。そしてそうであると私は信じようと思ったのだ。
「可能性ってどれくらい可能なの?」、「想像力ってどれくらいまで想像できるの?」。
そんな質問には「それは、私の考えのいつも外側にある」 と答えたい。
ベーグル屋のジョイント・ベンチャー先は、どこだ?
ときどき行っているベーグル屋さんが開店前にヨガ教室を始めていた。店内に貼ってあるチラシを見た瞬間に思った。商売うまい!*1
そのベーグル屋さんは素材にこだわったいわゆる自然派食品のお店。早朝のヨガが終わったら、お客さんはそのままベーグルとスープセットを食べて帰るだろう。お客さんの健康不安や向上心を、ヨガ会場を提供するという形で解決している。ベーグル屋の集客、顧客への価値提供を同時に行えている。
ヨガ教室の方から見ても、すきま時間に会場を借りないでサービスの提供ができる。ベーグル屋、お客さん、ヨガ教室のみんなが喜ぶ状況になっている。
自然派の商品を欲しがるお客さんってそもそもどんな人たちだっけ? どんな感覚を味わいたくて、無添加のベーグルを買っているんだっけ?
そういった考えがジョイント・ベンチャーに結びつく。ベーグル屋さんは資源を投資したわけじゃない。店を開ける時間を早めていつもとは違った顧客に会場を提供しただけだ。金なし、手間なしのよい例に思えた。
そう考えると、ライフスタイルの提案って力強い。需要を種にして、それを広げていってあげる感じなんだろうか。ニーズの用途開発というか。ひとつのプロダクトにいかに多くのキャッシュポイントを作れるかというか。
*1:実際、食事中に、お客さんが1人新規で加入していた
「過去、未来、現在」を簡単に考えてみる
過去は、コントロールできない。変えることができない。現在から、過去の解釈を変えることはできる。
未来は、コントロールできる。ほんの一部だ。正確に言ってしまえば、未来はコントロールできないかもしれない。それでも、コントロールすることを諦めていいわけではない。諦めないことが必要なのは、現在のときだ。
現在はいちばんコントロールが利く。過去の解釈は、現在からしている。未来の解釈も、過去を参照して、現在からしている。未来は、実は、現在の連続した先である。「いつか」なんて日はこない。
過去を後悔しないためには、納得のいく現在にするしかない。満足がいっている現在からじゃないと、豊かだった過去は見えない。そのために、現在で行動をする。
未来を予測することは、未来に向けて行動をすることだ。でも、未来に行くことなんてできないから、現在のときに行動する。「未来に生きてる」という表現は多少の現実逃避を含んでいる。悪いことにはならないけれども。
ほとんどの人は、現在、現実を省略したり拡大したりして生きている。そうやって行動したり行動しなかったりしている。
World Wide 腐女子
今日もオンライン英会話。ビジネス英語を学ぶはずだった。
気づけば、30分アニメの話をしていた。
講師の方は腐女子で、英語で腐女子は「FUJOSI」という(そのまんまですね)。
世界って広いなあと思う。世界に腐女子は広がっている。世界各国の腐女子を束ねた腐女子ネットワーク的なものもあるとのこと。秋葉原や池袋の情報も普通に入ってくる。将来は、日本に来て働くのが目標と言っていた。そういえば、私の友人でもアニメ好きすぎて東京で働いてるフランス人いたわ。
英語という空間で、日本のサブカルチャーについて話すことができる。日本人でよかったなと思う。
カップリングは英語だと「(relation)shipping」というらしいです。そこは違うのね。
「使命感」って気のせいなんじゃないか?
歳を取るにつれ、こだわりもなくなってきた。
「意識高い系の学生は、その後10年どういう人生を歩むのか?」みたいなのには興味があって(私は意識低すぎて床の下にめり込んでるくらいの学生だった)、給料の高いところに勤めれば、30歳になる前にマンション買えちゃう人とかいる。昔だったら圧倒されていたと思う。でも最近は、もう他人だって私だって突き詰めれば趣味で生きてると捉えられるようになってきた。分けれるようになってきたというか。
「趣味」という言葉を具体的にしていくと、好みや思想のことであり、人は最後のところでは自己満足にいきつくのではないか。
以前Twitterで見たと思う。国境なき医師団の方が、とある講演で「それでも、人助けしたいという自分がいて、それが自己満足だということを忘れてはいけない」とおっしゃっていたそうだ。(間違ってたらごめんなさい)
職業に貴賎はないと言うつもりはない。崇高に思われる仕事でも、そうでない仕事でもなんでもいい。それが行いたいという欲求を抱えている自分がいることを忘れてはいけないんじゃないか。
「社会のために」って思っていたとしても、「社会のためにと尽くしたい自分がいること」を意識していたほうがいいのではということだ。
私やあなたが、仮に、善性や神性の代弁者だったとしても、「代弁を行いたかった自分」からは逃げられない。
じゃあ、義務感や使命感はなんなのだということになる。私は、「それは気のせい」だと言ってしまいたい。ヒューリスティックな観点からすれば、確信は、その個人においては確実性が高い。それでも、他人から見たら意味わかんないときがある。いくらひらめき直感タイプの起業家でも、事業の説明は「WHY」から始めないといけない。「電波が届いた」といった表現をしているのは猪子寿之氏しか見たことがない。
こう書いているとわかるんだけれど、「使命感」は、他者に説明するための言葉なのと同時に、ストーリーを呼び起こす単語でもある。なぜかというと、もともとの「使命感にあたる何か」は、勘や感覚に近いものだからだ。そこまで理性的なものではないと思う。「やらなければ」といった気持ちも、自分か誰かが作った、物語にのっかっているだけなんじゃないのか。
調味料をいきなり入れる人が許せない
ラーメンや蕎麦に、コショウ七味をいきなり入れる人が許せない。
私の家族がそうなのだけれど、「へい、お待ち」とカウンターを越えて目の前に置かれた熱々のラーメンに、なんの躊躇もなくドバドバとコショウを入れる意味がわからない。
なんのための調味料なの?
文字読めないの? 「味を調節するためのもの」だから調味料なんじゃないの?
まず一口食べようよ。味を確かめたうえで調節しようよ。
いつもは頭きれきれで仕事しているコンサルの人が、ほうれん草のお浸しになにも言わず醤油をかけるのも許せない。
それ思考停止してない? いつもの癖でただかけてない? 全然ロジカルじゃなくない? そのプロダクト、前提間違ってたかな?
ご飯が好きだという方たちには味も大切にしていただきたい。作ってくれた人のデフォルトの味をちゃんと理解しよう。