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絶望不十分

言葉について考える

うっかりミスで、巨額の損失を出す。気づいたのが遅かった。

 

振れ幅でいえば、一番底をつくくらい落ち込んだ。

 

精神的にヤバくなるのは、「私にとっての世界=私にとってのすべて=失った対象」となるときだ。車を死ぬほど愛している人が、大切にしているプリウスを失ったら、「私にとっての世界=私にとってのプリウス=失ったプリウス」と前述の式を使うとなる。最愛の人だってそうだろう。愛する人を亡くしたら、本当にそれまでの世界観が崩壊する。告白して振られても、そうなる。

 

車や告白失敗は、他者から見れば「それがすべてじゃないよ、生きることはいろんなことを多分に含んでるよ」と言えるものであるんだと思う。ワーカホリックに仕事だけがすべてじゃないよ、と言うのも似たようなものだ。

 

人間の生きる感覚をひとつの器とする。その器が常にひとつのもので埋め尽くされていると、余裕がなくなる。入ってるものが自分の認知している世界のすべてだと思い込んでしまいやすくなるよということ。失ったら再構築していくのだけど、再構築とかそういう問題じゃねえよって思い込んでしまいがちなのだ。私の今回失った額も。もともと私は豊かだからたぶん問題にはならないはず。感覚としては。

 

話は変わって、逃避行動の話。人間はつらい現実は見たくない。幻想の空間が好きな人はたくさんいる。ただ、怖いと思っていることには挑戦したほうが精神衛生上よいのではないかという説がある。創造的絶望と、それは呼ばれているらしい。怖いと思っているものに直撃したくないから、オンラインゲームをしたり、部屋の掃除をしたり、出てきた卒業アルバムを読んだりしてしまう。テスト前なんかまさにそうだろう。人は怖いものは自然と避ける。前に進むにはそのうえで、本当の絶望に向き合わないといけないということだ。

 

今回の損失は、絶望にしては十分だった。思い悩んだ。後悔も他人を疑ったりもした。もう生きていけないのではないかと5秒くらい考えた。それでも、計画は進む。時間は流れていく。一度絶望すると、また違う課題が見えてくる。不安を感じる本質的な原因は「知らないこと」だ。詳しくないから怖いのだ。

 

私は現実逃避を愛している。それでも、向き合うときに絶望不十分なときは踏み込む勇気を持ち合わせていたいと思う。こう書いていると、嘘っぽい現実逃避と本当っぽい現実逃避があるのではないかと疑問も出てきた。