距離感とは何なのか

 以前にも書いた。距離感が苦手だ。

 

どう振る舞ったらその空間で正解なのかがわからない。コミュニケーションが定義上「望んでいる結果を相手から引き出す」だとすると、そもそも私が普段生きていて、他人に何かしら特定の結果を望んでいない。基本的に、意味付けのない空間だと、他人に興味がない。普段は、ぼーっと考え事をしたり、目的のために動いたりしている。そこに他人と接する必要はほとんどない。

 

距離感が苦手というよりも、どちらかといえば、目的のないコミュニケーションが嫌いなのだと思う。世間話が得意ではない。他愛のない話は人間関係の潤滑油だと世間はいうけれど、本当にそうか? 一緒に修羅場を乗り切ったほうが連帯感つよくなるのではないか。そんな屁理屈を言いたくなるくらい、意図がはっきりしない空気から距離を置きたくなる。

 

無目的なら無目的で、そのときは1人でいたい。2人以上でいるなら、相手も私と同じような「特に用事もなくだらだら暇つぶしをするときは孤独でありたい人」がいい。わがままだけれど、その場合なら、目的のないコミュニケーションは発生しない。のんべんだらりとしている人間が、同じ空間に同人種で2人いるだけだからだ。表現が難しいのだが、それは「お互いをギリギリで無視し合ってないくらい」の特殊な関係だ。「お互いがお互いで、自分のやりたいことに没頭している状態なんだけど、同一の場にはいちおう在籍している」という感じだろうか。

 

高校生のとき、友達の家に集まってるのに全員が別々のことをしていたのを思い出す。1人は漫画を読んで、1人はゲームをして、1人はベッドで寝ていた。そろそろ帰るかなという時間になったら各々自由解散だった。それくらいが理想だ。

 

距離感を気にするのは、相手に失礼なことをしたくない以上に、私が傷つきたくないからだと思う。不快な気分にさせることを過剰に恐れるのは、コミュ障の鉄板コースだ。奥底にあるのは、攻撃を受けて出血をしたくない自己にあるのではないか。

 

おそらく、私が感じ取れないだけで、文脈が薄く見える空間でも最適解なマナーというか、正しい振る舞いがいつもあるのだろう。「どう振る舞ったら正解かがわからないこと」が距離感のわからなさの苦しみを支えている。

 

目的がなければ、私は他人に興味のない状態で接する。相手に興味があるように振る舞えない。そのくせ、相手から迫害や嘲笑を怖がっている。

 

相手のなかの攻撃性を恐れず、相手に興味ない状態を持続させて接することができない。勇気がないからだ。意図のわからない相手に、興味がある振りもできない。接する人を不快にさせずに、自分の言いたいことを主張できる間合いがわからない。関係性に対する知識がないから、関係性に合わせた振る舞いがで不可能に思える。

 

いちばん楽で安全なのは他人と接点を作らないことだから、今日もこうして友達を失っていく。

 

礼儀正しいのは護身術の基礎だと思っているからそれは本当に大切なことだといいたい。礼儀は弱者の味方だ。本質は相手に敵意がないことを示すことなんだと思う。相手に恐怖を抱くことも敵意の一種なら、それは悟られないほうがいいのだろうな。まだよくそこらへんがわかっていない。

 

長々と書いているけれど、距離感というのは感覚の一種なのだから、そこまで問題の中心にないように思える。好意であれ、敵対心であれ、恐怖心であれ、無関心であれ。それらは、勝手に感性で決まる。自動的に定まるものは仕方ない。

 

どちらかといえば、「仲良くしたいんだけど、嫌われたときが怖いから、攻撃されても平気な距離をあらかじめ取っておこう」だとか「興味のない人だけど、むやみに敵を増やしたくないから、ちょっと愛想笑いをしておこう」だとか、そういったことを過剰にやりすぎなのかもしれない。問題はこっちサイドにある気がする。

 

気が合うなと思える人と距離を縮めたいときには、ある程度以上のリスクが出て来る。振る舞いは、わかりやすいほうがいい。相手視点で気が合わないなら良い友達にはなれない。

 

興味を持てない人から嫌われる覚悟はしなくていはいけない。数を0にすることは何事も不可能だから、そこは割り切ろう。明るい人ってわけでもないから私は。

 

距離感の本質ってそういうところに潜んでいるような気がする。

 

取りたい距離感に対してリスクを引き受けながら素直に振る舞うこと。無関心が原因で取りたい距離が存在しないなら相手から嫌われるのを恐れないこと。 自己防衛のための距離もあるということ。