私の予測可能性

ここ数年は混乱して生きてきた。

 

今日かな、昨日あたりか。生きるということに予測可能性がある程度見えてきたような気がする。

 

人間に関して「事前条件がこれこれこういう風に揃っていれば、結果がこうなる」というものだ。

 

おそらく人は、この感覚にひとつ真理みたいなものを覚えるんだろう。

 

他者に関してはある程度、予測可能性についての(概念的な)感覚が湧いてくるようになってきた。

 

ものすごく乱暴にざっくり書けば、小学生のころに良いやつだった人は、大人になってもだいたい良い人だ。その感覚が私の人生を支えている。かわいい子はだいたい大人になってもモテる。かっこいい人と結婚する。だいたい、というのが私の考えとして大事なのだ。(すごく頭悪いこと書いている気もするが!)

 

私については、まだまったく予測可能性がわかない。私は意外と私に興味がない。なんらかの指標にそって、その道のエリートになれば生活も容易いと思う。それでも、やっぱりわからないのである。

 

予測可能性については私の心の支えだが、同時に、予測可能性から外れてくれる人たちの存在が私の生きる喜びなのである。

 

好条件のものが、好結果を出すことは豊かなことだ。そこは安心して影からこっそり眺めていたい。予測から外れたものは私を不安にさせるが、それでも私の手元のデータは更新され、私の予測可能性は寛容になっていく。