他人より経験が遅い

たびたび世間にまだついていけてないなと感じる。

 

エアコンの「ドライ」の意味が21歳までわかってなかった。茅ヶ崎を友人の名前と似てるからか「しがさき」とずっと読んでいた。銀行のキャッシング機能を知ったのも1年前だった。

 

大学に入るのも1年遅れたし、中学3年生になっても「安室奈美恵って誰?」となっていたのはクラスで私1人だけだったと思う。

 

これからも他人に遅れを取り続けて生涯を終えるのではないか。そんな考えがある。ただ、不安ではない。いちおう、心のどこかに「自分のやりたいことに追いつけてるから、まあいっか」という気持ちがある。

 

海外の人とコミュニケーションができるから留学はしてよかった。小学生のときから本を読み漁り、高校からは映画と音楽にも熱中した。将棋を始めていたし、料理も大学のときにハマった。

 

書いてみてわかることは、私は小学生のときからすでに、生活の趣味が老後なのだ。おかげで、趣味にお金がかからない。本も、映画も、音楽も、ゲームも、料理も、世間でお金がかかる趣味と思われているものより、安く楽しむことができる。

 

この頃はランニングを始めた。これもお金がかからない。自分の身体を使って走るだけだ。でも、奥がとてつもなく深い。ゆくゆくはトライアスロンの大会にも出てやろうと画策している。

 

死ぬまでに何度も「ああ、なってないなあ」と世間への遅れを感じるのだろう。冠婚葬祭の礼儀やビジネスマナーは生きているのだからどんどん詳しくはなる。でも、他人から今後も「知らないこと」にびっくりされると思う。昨日なんか自転車の右ブレーキが前輪にかかることも忘れていた。

 

知らなかったことを嘆いても何も変わらない。知らないことがあることを自覚していけばいい。大切なのは、知らないことを始めるときに人に頼れるかどうか、そういうところに本質があるのではないか。

 

 

オタクは知識顕示欲のタイミングずらすだけで話が上手になる

いかに自分に知識があるかを披露するのに必死になってしまうときがある。

 

「そういう話でしたら、〜という事例がありまして」とか、もっとオタクで例えるなら「あの監督って他の作品だと〜だから、今回の声優さんは〜だったりして」とか。

 

オタク同士ではよく「お前これ知ってる?」合戦が繰り広げられる。そのノリで日常会話をしていると、質問に答えるのではなく、自分の知識をとにかく関連付けして返してしまいがちだ。話を聞いてないで、自分がいかに知識があるかの防衛戦をする。

 

そんなとき、知識顕示欲のタイミングをずらすだけで話が上手い人みたいに見える。

 

まず相手の話を聞き、返しに抽象度高めのことを言って、最後にここで知識をひけらかすのだ。

 

脊髄反射で自分の知識を言うのではなく、相手の質問の返答として具体例を言う。

 

「シンゴジラ撮ってた庵野さんが昔作ったエヴァンゲリオンってどんな作品なの?」(質問)

 

「衒学的と言われていますね」(抽象的)

 

「どういうこと?」

 

「そう思える点としては〜」(具体例、ここで知識の顕示)

 

文脈だけ用意してあげれば、オタクが夢中になって具体的なことを言いまくるのも悪くない。だから、いちばん大事なのは、もしかしたら相手の話を黙って最後まで聞けるかどうかなのかもしれない。

 

 

 

 

腕時計を本当によくなくす

腕時計をとにかくなくす。電車、温泉、友人の家。いたるところで忘れる。高い時計を買う気になれないのはどうせ紛失してしまうからというのが大きい。

 

ヘッドホンもなくす。イヤホンもなくす。手袋もマフラーも。書いていて多いなあと思う。たぶん、身につけるものがダメなのだ。

 

先日も長距離移動から帰ると、腕時計をしていなくてびっくりした。無意識に外してしまっていたようだ。

 

インドを起源とする放浪民ロマは、指輪や足輪に豪華な装飾品を選び、いつでも住む場所を追われてもいいようにしていると本で読んだことがある。逃げ延びた先で物々交換や換金をするためだ。その精神には程遠い。

 

高級腕時計に憧れるときもあった。でも、性なのだし私は私だと切り捨てようと思う。

 

 

【レポート】エンディング産業展に行ってきました

第2回となった日本最大のエンディング産業展(葬儀・供養・埋葬の専門展)*1に行ってきました。

 

レポートなり、思ったことなりはまた別日にして書きたいと思います。

 

ざっと思い出すと、手掘りの墓石を作ってらっしゃる会社様と、遺品整理をしている会社様の方には大変お世話になりました。

 

和歌山や三重あたりの土葬の話や、新潟の骨壷を使わず墓のなかの土に直接骨を撒くやり方の話、石が1000年持つといった話鎌倉時代に仏像担当の宋からの僧に並んで石工の方が新しく花崗岩を使い始めて層塔の丈夫さが上がった話。

 

供養・葬儀・埋葬の役割って、死の周辺で起きることのUXを上げることだと思いました。死そのものに対処するのはあくまで医療かなと。

 

マーケティングの観点でいえば、認知開発にもっと明るい話が聞けたらよかった。葬儀を上げる人視点でのサービスが多かったけれど、今後は残される人視点のものがより増えてくるんじゃないか。モノ自体より、体験をより売っていくようになる気がします。

 

見送られる人、見送る人たち。2つの要素を集団として、記憶に残る形で空間を売っていく。

 

ある程度書いたので、一旦ここで筆を止めたいと思います。

猫の退屈

猫と生活を始めて1ヶ月になる。名前は大臣という。

 

ひょんなことから住むようになった。一緒にいる時間も長いといえば長い。

 

彼の基本サイクルは簡単で、3つだ。寝る→遊ぶ→寝る→遊ぶ。その合間にご飯を食べたりもする。それで3つ。

 

基本があるなら例外も存在する。退屈している時間だ。どうやら、「寝てるは寝てるけど遊びたいは遊びたい」みたいなときに、そんな風に見える。

 

風通しのよいところでいつも横になっているから、最近はたいてい机の上でぐうすか寝ている。側でキーボードを叩いていようものなら、噛まれるかひっかかれる。その場から動くわけではない。その場から届く範囲で、暇つぶしにちょっかいを出される。

 

仕事で小さな子どもたちの見守りをしたことがある。けっこう、猫に行動パターンが似ている。退屈が嫌いなところも。新しいことを学ぶと、いたずらの範囲と種類が増えるところも思えば近い。

 

まだ1ヶ月とはいえ、大臣も子猫からだいぶ大人になった。相変わらずやんちゃなままではあるけれど、子育てもこんな感じなのかなあとたまに考える。

 

 

「人脈」ってなに?

「自分より格上で、自分のことを重視してくれている人」のことを人脈と習った。

 

本当にそうなのか。いつもより明るい道を通って、スーパーに行くあいだに考えた。

 

もちろん、そういった意味もある。けれど、「一緒にいると、いつもと違うことが起こる人」と捉えることもできるなと思った。

 

私は怠惰なので、いつも同じ行動を取る。ときどき、挑戦もする。日常化を楽しむということは、やっぱり日々がいいのだ。

 

一緒にいるだけで、いつもだとできないことができるようになる。Twitterのリスト作り、先延ばしにしてたイベントチケットの決済、自転車のチェーンの調整などなど。

 

孤独な時間はこれから増えていくと、ちょっと前に書いた。断っているし、なんとなくなコミュニケーションは減っていっている。でも、「縁は自然と残るもの」と大学の恩師である大野さんに習ったとおり、根暗な活動をしていても結果として会う人がいる。

 

今度、手伝いをお願いしたいと思う。Twitterのリスト作りがまだなのだ。頼ってみようと思う。

 

 

来ない完璧、来る不完全

よっしゃやるかとブログを始めてみて、いまだに納得がいく更新ってあんまりない。

 

大作を書いてやろうと初期は思っていた。待てども待てどもよいものができない。毎日更新することを重視して内容は二の次にすることにした。いつかは納得がいくものが書けるでしょうと、待っている。

 

自意識過剰な人間にありがちなことがある。書いている間、「こんなものを世の中に出していいのだろうか」と内部批判が続くのだ。更新したとして、ああでもないこうでもないと添削したり非公開にしたり時計の針だけが進んでいく。

 

さすがに気づいた。書いているときに、「本当にこれはよいものなのか悪いものなのか」と考えることそのものが「偽問題」なのだ。

 

偽問題とは、問いが前提として間違っている場合である。問題の設定がおかしいのだ。予めの考えるところが「偽」なのだから、答えも「偽」しかない。たとえ真に思えるものであっても目的地が間違っているからゴールに着いても意味がないのである。

 

書くことの本質は、書かれていることにある。当たり前だ。大事なことは「書けないこと」ではない。迷っていたほうがいいケースは存在しない。乱暴に言ってしまえば、正しいか正しくないかなんて後で考えることだ。

 

 

ナメクジと蜘蛛は殺さない

電動歯ブラシの電池が切れそうだったから、洗面所に行く。テレビからは、日本列島の下のほうに台風が3つもあると音声が聞こえる。

 

洗濯機の前に来たとき踵にぬるっとした冷たい感覚がわいた。完全に踏んでしまう前に足を上げる。猫がウンチでもしたんだろうか。サイズは同じくらいだけど、色が微妙に違う。ナメクジだ。

 

夏に出る虫はたいていは叩いて殺してしまう。蚊には苦い思い出がたくさんあるから筆頭だ。でも、なんだかナメクジならいっかとティッシュでくるんで、家の外に放ってやった。

 

蜘蛛は他の虫を食べてくれるのもあって益虫だという。ナメクジは、残念ながら害虫である。実家にいたとき、土をいじるのが好きで畑を耕していた。ナメクジは、当時最大たる敵であった。トマトの葉など、野菜を食い荒らすのだ。

 

なんで助けたのかはわからない。たぶん、あるとしたら、のそのそとした動きのせいだ。ゆっくりと動くことに憧れがある。スローに動けば、それだけいつもと違うように物が見えるのではないか。そんな敬意があったのだと思う。

挑戦したことが日々になっていく

毎日できるだけ書こうとしている。最近は書評にも挑戦している。

 

挑戦することは、怖い。できればやめたくなる。臆病だから、根っこの部分は変化したくはないんだと思う。

 

生きていることは、心臓が動いて止まるまでのただの期間だ。そんなことを小さな頃は胸に抱えていた。でも、そうではないだろう。

 

子どものときと書いて思い出した。誰にでもできることで、生きるか死ぬかのチャレンジがある。告白だ。

 

「あなたが好きだ」と声に出し、相手の返答を待つ。YESかNOかで運命が変わる。たいていは振られるけど、上手くいくときもある。そこらへんは上手くやれよとは思う。

 

OKが出たら、最も近い他人として、しばらく一緒に過ごすことになる。1ヶ月のこともあるし、一生のこともある。だんだんと、命がけでの挑戦した相手が、身近になっていく。デートに行って、お互いの部屋に行くようになる。食べ物の好みもわかってくる。毎日毎日、挑戦したことが日々に取り込まれて、ゆっくりと日常になっていく。

 

昔より緊張する告白はなくなったけれど、退屈に耐えられなくて、新しいことを始める。ドラムでもベースでも書道でもパルクールでも。

 

始めることは勇気がいる。ダサいだとか笑われるだとか、人にどう思われるかの不安もある。それでも、既存の世界からまったく様変わりすることに挑戦して、日常化をしていくペースを、楽しんでいきたい。理想の世界が少しずつ時間をかけて、現実に溶けて混ざっていく感覚。それは幸福のひとつなんだと思う。

コンビニでついお菓子を買ってしまうのを止める方法

「資格勉強のために節約がしたい。でも、昼休みのときについコンビニでお菓子を買ってしまう」と相談を受けた。

 

止める方法は簡単だ。「お菓子を買うときに、お菓子の値段に30を掛ける」のだ。

 

例えば、ポッキーが1箱168円だとするならば、168*30=5,040円。

 

どういう考え方かというと、「いかにしてお菓子を買う習慣を止めるか」が本質にある。

 

お菓子を買うことに悩む人は、習慣的にお菓子を買っている。つまり、1ヶ月30日、毎日お菓子を買っていることが多い。

 

最初にお菓子を買うときは、「1ヶ月続けてしまう入り口」である。ポッキー1箱買ったときの、習慣の始まりを警戒するのだ。

 

「ポッキー1箱コンビニで買ったら月に5,040円出費してしまう」と考えるようにする。

 

これは他のことでも言える。ダイエット失敗の原因は、「痩せている身体をキープできる生活を続けられないこと」にある。一時的な食事療法や運動療法ではうまくいかない。一生続けられる生活習慣によって、健康な身体を保とうとしないからだ。

 

怖いのは、習慣の始まりだ。反対に言えば、始まりさえ防げればなんとかなる。人間の心理は、手に入れるときよりも、手放すときのほうがコストを感じるようにできている。一度始めてしまうと、なかなかやめられない。もちろん途中からでも、ポッキー1箱の値段に30を掛けるところから始めてみるといいと思う。月5,040円なら新しい参考書も買えてしまう。

【レポート】真山は永遠 / 『羽海野チカの世界展〜ハチミツとライオンと〜』

『羽海野チカの世界展〜ハチミツとライオンと〜』観てきました。最終日でした。場所は池袋。

 

感想としては、

・サロンパス…

・色美しい

・ネーム、プロットの作り方

 

・サロンパス…

水彩画材の近くに「ひつじゅひんです!」という言葉とともにサロンパスが置いてありました。なんというか、もう本当にご自愛くださいませとしか言えない…。Twitterで「次回はバンテリンも出す」ともおっしゃっていた…。

 

・色美しい

構図もさることながら、色彩がいちばん好きでした。はぐちゃんの服の、赤と青。あの濃い青は忘れない。(正確には藍色と呼ぶのか?) ポイントポイントで黒が効果的に使われていて、あんなに黒って画面を引き締めるんだーと驚きがありました。

 

・ネーム、プロットの作り方

8分割でブラッシュアップしていくネームの作り方は、初めて拝見しました。そして何より、ノートに構図を取っているときのメモに「嘘がないこと」「ずるいところがないこと」と2つ書いてあることにいちばん驚きました。

 

私は人の思考、人が何を考えどういうプロセスで進めていくかが、どうしても気になります。羽海野先生の描くことに対する想い、考え方に強く惹きつけられました。

 

 

原画、羽海野先生がどういうふうに作品を作り上げていくのかを見ることができて、嬉しかったです。

 

やっぱり、真山は永遠です。本が好きです。マンガも大量に読んできました。でも、真山のイメージはなくならないんですよね。キャラクターが他にない。真山って本当に人間くさい。

 

地元の神話体系に登場できない苦痛

生まれた病院はもうなくなっているし、住む場所を転々とする生活をしてきた。

 

地元という感覚のところがない。故郷って自負する場所もない。ふらふらとしてきた人生である。

 

いま住んでいる街は気に入っている。長々と暮らしたい。でも、性分からまた移動すると思う。

 

ときどき、苦しくなるときがある。それは、地元の神話体系に登場できないときだ。他人の記憶に残れないとわかっているのは辛いことなのだ。


盆正月に、親族に噂されるのが嫌で田舎へ帰らないように、人の口に上りたくないのなら、街で身の上話をすることもなくなる。地縁という言葉に恐怖を持ってしまっている。自分にはあまりに濃すぎる存在ではないかと。

 

田舎には身近な山や川、海に、本当に伝説があったりする。その土地に根付く文化や逸話が確実に存在している。同じように、地元のコミュニティにも時間をかけて蓄積されてきた歴史がある。

 

「あいつはいまなにやってんだ」とか、「こいつも昔はなあ」とか、小さいころの失敗談や、聞いたら顔が赤くなるようなエピソードまで、皆が集まったときに酒も交えて語られる。

 

街には街の、固有の神話体系があるのだ。

 

いままで、いろんなところに住み生活を楽しんできた。でも、土地に根ざした文化に回収されたことはない。地元の神話体系に登場できないで、私は誰の記憶に残ることができるのだろう。

 

地元に参加しきれなかったという憧れと失望が、心にある。私は結局、土着することができなかったのだ。

 

未来にどの土地でも、私が語られることはないと覚悟をするには、勇気がいる。

 

 

孤独なのに寂しくない

 本を読むために、人と会わない生活に慣れてくると、「孤独だけど寂しくない」という状況が起こる。

 

いってみれば、本と会話するのが楽しくなってくる。寂しさも学習するものだとわかる。感情はあくまで、「AならばB」のように状態認識とセットで引き起こるものだ。

 

もちろん、社会的に孤立したときに人は物理的に生きづらくなる。それは避けたい。

 

でも、いまの成熟してきた社会では、不思議なことに、孤立するのにお金がかかる。なにもしないで完全な孤独って難しいのだ。

 

独りきりになりたい? それならまず、部屋を借りよう。毎月、孤独になるために家賃を払おう。もし部屋が借りれないならどこか遠くに行こう。人間がいないところまで。電車、飛行機、スペースシャトル、何に乗る?

 

 いまの時代、月まで行っても人はいる。孤立するなんて無理だ。生来の存在としては天涯孤独なくせに、社会的には独りになんてなれない。どうやったって誰かの認識には上ってしまう。むしろ、他人を意識しているときに寂しさを感じる。『孤独なボウリング』も、他のレーンに誰もいなくて、自分たった1人がボールを投げてたら、それはそれで楽しくないか? 飽きるまでハイスコアが狙えるぜ。

 

まあ、社会については一旦置いておいて、読書の話に戻ろう。

 

「孤独なときのほうが寂しくない」って状況は、私にはひとつの救いになっている。

 

知ることによって、世の中の解像度が上がっていくのは楽しい。より臨場感をもって日々を生きれている。

 

新しいレシピを覚えて美味しいパエリアが作れるようになるのも、ウイルス解説本によって自分の肺のなかに平均174個のウイルスが存在しているのがわかることも楽しい。外に出たときに、無印良品では食器のコーナーと包丁は見るようになるし、薬局では「なんで効くんだろう、これ?」と疑問を持ちながら面白おかしく風邪薬を買うようになる。

 

私は、ますます話したくない人とは話さないようになっていくと思う。心が通わない人と話しているときのほうが、独りのときより寂しさを感じるからだ。受け身のものでなく、より自発性が高いコミュニケーションを行っていきたい。

 

愛してないものに愛していると言うのには懲りてきている。

 

読書が好きなんだから、不毛なコミュニケーションよりは、1冊の良書を読む豊かな時間を優先していきたいと考えています。

 

 

静的な世界は書物のなかに

"32件の新着ツイートを表示"みたいに、SNSやニュースサイトを見ていると、際限なく情報が出てきて驚くことがある。

 

いまは文章の摂取がほとんど書籍からなのだ。書籍は読んでいる間に、それぞれのページに文章が増えることはない。静的な世界だ。

 

Webのダイナミックさは好きだ。世の中が動いていることが直に見て取れる。人間って動的ないきものだよなと心から感じることができる。際限なく加速度的に増えていくデータ、天才が創り出すかつてない未来、新しく祝福される出来事の連続。

 

でも、いつもそこに浸っているというのはできない。そりゃ、個人も同様に、動的ないきものである。調子のいいときも、悪い時もある。

 

動的な世界にうんざりしたときは、静かな環境を求めることになる。図書館、書斎、人のまばらな喫茶店。本を読むならそんなところがいい。本は100年前でも100年後でも同じ内容だ。変わらないってことが、救いになるときもある。

 

生きることも、記憶も、存在も、永遠には続かない。いつかは終わる。

 

目にするもの手にするものはみんな揺れ動いている。そんななかで、絶対的に静かで何も起こらない、誰にも迷惑をかけない、誰も私のことを考えることがない空間があるってのは感謝できることであるし心が洗われる気分になる。

 

本当に「○○放題」は無限か考えてみた

本読み放題サービス、Kindle Unlimitedが、月額980円でAmazonから開始された。


本好きな人からすれば、読み放題なんて言葉は魅力的に映るだろう。

 

世の中には他にも、いろいろな「○○放題」がある。

 

どんなものがあったかなと、のんびり考えてみた。

 

それらは本当に無限なのだろうか?

 

1.食べ放題

 

「2時間以内なら、寿司食べ放題」など。

 

基本的に、時間制限によって成り立つ。

 

文字に直してみると「制限時間の中でなら、対象は無限になる」という、少し中二病すら感じられるものになる。

 

忘れてはいけないのは、たとえ寿司が無限になったとしても、胃に入る量は有限なことだ。

 

これはトリックで、「食べ放題」と聞いた瞬間に、私たちは自らの肉体が限りあるものだということを忘れる。

 

まとめると、食べ放題は「対象は無限、時間は有限、身体は有限」。

 

食べ放題とは、時間制限つきの権利のことだ。私の身体が無限に寿司を食べることができるわけではない。


2.パケ放題

 

いわゆる、データ通信に対する放題。「どれだけ使っても月4,500円」など。

 

食べ放題の違いとしては、肉体に負担がないことが挙げられる。

 

この場合、制限があるとすればインターネット回線などのハードウェアへのものになる。

 

ハードウェアは肉体と同じで、限りあるものだ。

 

パケ放題は「対象は無限、時間は(実質)無限、ハードウェアは有限」。

 

権利をお金によって買っていることは、食べ放題と変わらない。


3.生き放題

 

いわゆる、人生。『もののけ姫』なら、「生きろ。」など。

 

特徴としては、

・時間は有限

(いつ終わるかは不明。人間は寿命も死そのものも知覚できない)

 

・身体は有限

(身体にできる範囲なら前提としては自由に行える)

 

・対象は人による

(人によって「生きている」と感じるポイントは違う)

 

まとめ

 

ざっくりとだが、この世界にある「○○放題」とは無限ではないことがわかった。

 

「○○放題」とは購買活動において、権利を獲得しているだけなのだ。

 

身体やハードウェア次第なのも、無限ではない理由に一役買っている。

 

この世に存在するものは有限だからだ。

 

最後に

 

そして、「生き放題」は、経済ではなく政治的な問題だということがわかった。

 

生きる権利は誰かから購入しているという話をしていくと、コミュニティや国家の話になっていくからだ。

 

でも、そんなことを言ったら、生きる権利なんて生まれたときにあったんだろうかとも思う。

 

まあ、人生に元から「何に価値を感じればいいか」なんて設定があるわけではない。

 

その意味で、人生に意味なんてない。

 

生き放題のなかで、なにを「生きたとするか」は、個人によって勝手に決めればいい。 旅に価値を感じる人もいれば、ビジネスの成功を至上とする人もいる。

 

生き放題ではあるんだから、人生を謳歌しろってことなんだろうか。