お金と機嫌

これからお金が以前よりたくさんかかる生活に突入する。

 

お金では今週はだいぶ悩んだ。もんもんとするのって時間の無駄。しかし、悩みの速度のまま任せていくと、勝手に思考が袋小路に入る。

 

10億の資産を持つ人がリーマンショックの影響で2億まで減ってしまい、自殺しそうになったと話を聞いたことがある。不安も幸福も、差分からきているのかもしれない。

 

まだ考え続けれてないとしても、思考の途中に浮かぶことは、「無一文って何?」という疑問だ。「資産0円」とはどういうことなのだろう。

 

現金をふくめて金融商品をまったくもっていない状態。それは本当に人生のおわりになるのだろうか? なさそうである。人生は、望んでも、自然には簡単には終わってくれないことがほとんどだ。生きることは簡単には終わってくれない。

 

もしかしたら、それは物語の運動性を関係あるような気もしてきた。この話題についてはまた別の機会にでも書く。

 

話を戻すとして、まとめていけば、「無一文」の状態で問題がないという解釈にいたれば、少なくとも(収支計画はいつまでも完璧に詰めきれることはないし)資産がまったくないことに恐怖を覚えることはなくなるのではないか。

 

この場合の無一文とはとても情報っぽい解釈が働いている。「はじめにロゴスありき」レベルのものである。0円になっても、身体はあるし、学んできたものもあるから、始める意志があればいいんじゃないか。文化も人間関係も、お金には換算できるのだし。

 

不安を覚えるのは、たぶん、お金と「規制」についてだ。お金がないことは、結局は、「アクセスできない」ことに直結する。お金は可能性を左右する。可能性へのアクセス権は、この世界だと2つ大きくある。貨幣と言語だ。

 

「お金がなければそれにアクセスできない」という現象が怖いのだと思う。そこでお金以外の手段を発生させれてくれるのが知恵であり、教養と呼ばれるものなんだと思う。

 

タイトルにそってこの記事を終わらせようとするには、なんだろう、機嫌についても触れないといけない。

 

「お金について機嫌よくなりたい」というところからスタートしているのだ。

 

こればっかりは、お金について詳しくなるのが早そうだ。お金に詳しい人に聞くと思う。お金とはなんなのだろうね。

 

値札に書いている価格が「可能性へアクセスすることへの規制」なのは間違いない。意外と、みんな自分の資産については無意識に把握して生きている。自分に自信がないと、美人にはナンパしづらい気がする。

 

お金で生きることを諦めるってことはやりたくねえなーと思う。それでも物語は続くのだ。