絶望不十分

うっかりミスで、巨額の損失を出す。気づいたのが遅かった。

 

振れ幅でいえば、一番底をつくくらい落ち込んだ。

 

精神的にヤバくなるのは、「私にとっての世界=私にとってのすべて=失った対象」となるときだ。車を死ぬほど愛している人が、大切にしているプリウスを失ったら、「私にとっての世界=私にとってのプリウス=失ったプリウス」と前述の式を使うとなる。最愛の人だってそうだろう。愛する人を亡くしたら、本当にそれまでの世界観が崩壊する。告白して振られても、そうなる。

 

車や告白失敗は、他者から見れば「それがすべてじゃないよ、生きることはいろんなことを多分に含んでるよ」と言えるものであるんだと思う。ワーカホリックに仕事だけがすべてじゃないよ、と言うのも似たようなものだ。

 

人間の生きる感覚をひとつの器とする。その器が常にひとつのもので埋め尽くされていると、余裕がなくなる。入ってるものが自分の認知している世界のすべてだと思い込んでしまいやすくなるよということ。失ったら再構築していくのだけど、再構築とかそういう問題じゃねえよって思い込んでしまいがちなのだ。私の今回失った額も。もともと私は豊かだからたぶん問題にはならないはず。感覚としては。

 

話は変わって、逃避行動の話。人間はつらい現実は見たくない。幻想の空間が好きな人はたくさんいる。ただ、怖いと思っていることには挑戦したほうが精神衛生上よいのではないかという説がある。創造的絶望と、それは呼ばれているらしい。怖いと思っているものに直撃したくないから、オンラインゲームをしたり、部屋の掃除をしたり、出てきた卒業アルバムを読んだりしてしまう。テスト前なんかまさにそうだろう。人は怖いものは自然と避ける。前に進むにはそのうえで、本当の絶望に向き合わないといけないということだ。

 

今回の損失は、絶望にしては十分だった。思い悩んだ。後悔も他人を疑ったりもした。もう生きていけないのではないかと5秒くらい考えた。それでも、計画は進む。時間は流れていく。一度絶望すると、また違う課題が見えてくる。不安を感じる本質的な原因は「知らないこと」だ。詳しくないから怖いのだ。

 

私は現実逃避を愛している。それでも、向き合うときに絶望不十分なときは踏み込む勇気を持ち合わせていたいと思う。こう書いていると、嘘っぽい現実逃避と本当っぽい現実逃避があるのではないかと疑問も出てきた。

距離感とは何なのか

 以前にも書いた。距離感が苦手だ。

 

どう振る舞ったらその空間で正解なのかがわからない。コミュニケーションが定義上「望んでいる結果を相手から引き出す」だとすると、そもそも私が普段生きていて、他人に何かしら特定の結果を望んでいない。基本的に、意味付けのない空間だと、他人に興味がない。普段は、ぼーっと考え事をしたり、目的のために動いたりしている。そこに他人と接する必要はほとんどない。

 

距離感が苦手というよりも、どちらかといえば、目的のないコミュニケーションが嫌いなのだと思う。世間話が得意ではない。他愛のない話は人間関係の潤滑油だと世間はいうけれど、本当にそうか? 一緒に修羅場を乗り切ったほうが連帯感つよくなるのではないか。そんな屁理屈を言いたくなるくらい、意図がはっきりしない空気から距離を置きたくなる。

 

無目的なら無目的で、そのときは1人でいたい。2人以上でいるなら、相手も私と同じような「特に用事もなくだらだら暇つぶしをするときは孤独でありたい人」がいい。わがままだけれど、その場合なら、目的のないコミュニケーションは発生しない。のんべんだらりとしている人間が、同じ空間に同人種で2人いるだけだからだ。表現が難しいのだが、それは「お互いをギリギリで無視し合ってないくらい」の特殊な関係だ。「お互いがお互いで、自分のやりたいことに没頭している状態なんだけど、同一の場にはいちおう在籍している」という感じだろうか。

 

高校生のとき、友達の家に集まってるのに全員が別々のことをしていたのを思い出す。1人は漫画を読んで、1人はゲームをして、1人はベッドで寝ていた。そろそろ帰るかなという時間になったら各々自由解散だった。それくらいが理想だ。

 

距離感を気にするのは、相手に失礼なことをしたくない以上に、私が傷つきたくないからだと思う。不快な気分にさせることを過剰に恐れるのは、コミュ障の鉄板コースだ。奥底にあるのは、攻撃を受けて出血をしたくない自己にあるのではないか。

 

おそらく、私が感じ取れないだけで、文脈が薄く見える空間でも最適解なマナーというか、正しい振る舞いがいつもあるのだろう。「どう振る舞ったら正解かがわからないこと」が距離感のわからなさの苦しみを支えている。

 

目的がなければ、私は他人に興味のない状態で接する。相手に興味があるように振る舞えない。そのくせ、相手から迫害や嘲笑を怖がっている。

 

相手のなかの攻撃性を恐れず、相手に興味ない状態を持続させて接することができない。勇気がないからだ。意図のわからない相手に、興味がある振りもできない。接する人を不快にさせずに、自分の言いたいことを主張できる間合いがわからない。関係性に対する知識がないから、関係性に合わせた振る舞いがで不可能に思える。

 

いちばん楽で安全なのは他人と接点を作らないことだから、今日もこうして友達を失っていく。

 

礼儀正しいのは護身術の基礎だと思っているからそれは本当に大切なことだといいたい。礼儀は弱者の味方だ。本質は相手に敵意がないことを示すことなんだと思う。相手に恐怖を抱くことも敵意の一種なら、それは悟られないほうがいいのだろうな。まだよくそこらへんがわかっていない。

 

長々と書いているけれど、距離感というのは感覚の一種なのだから、そこまで問題の中心にないように思える。好意であれ、敵対心であれ、恐怖心であれ、無関心であれ。それらは、勝手に感性で決まる。自動的に定まるものは仕方ない。

 

どちらかといえば、「仲良くしたいんだけど、嫌われたときが怖いから、攻撃されても平気な距離をあらかじめ取っておこう」だとか「興味のない人だけど、むやみに敵を増やしたくないから、ちょっと愛想笑いをしておこう」だとか、そういったことを過剰にやりすぎなのかもしれない。問題はこっちサイドにある気がする。

 

気が合うなと思える人と距離を縮めたいときには、ある程度以上のリスクが出て来る。振る舞いは、わかりやすいほうがいい。相手視点で気が合わないなら良い友達にはなれない。

 

興味を持てない人から嫌われる覚悟はしなくていはいけない。数を0にすることは何事も不可能だから、そこは割り切ろう。明るい人ってわけでもないから私は。

 

距離感の本質ってそういうところに潜んでいるような気がする。

 

取りたい距離感に対してリスクを引き受けながら素直に振る舞うこと。無関心が原因で取りたい距離が存在しないなら相手から嫌われるのを恐れないこと。 自己防衛のための距離もあるということ。

 

【随時追加】この世で生きていく上で使えたらおもしろい数字リスト

1.地球の面積 -> 510,100,000 km²   5億平方メートル

2.地球の赤道半径 -> 6,371 km

3.地球の赤道一周距離 -> 40,075km

3.地球の海でいちばん深いところ -> 11,000m  11kmか

4.地球と太陽の距離 -> 1億4960万km  1億5000万kmくらいか

4.東京都の最低賃金 -> 932円 (平成28年10月1日に効力発生日のもの)

5.東京都で雨が降った日数 -> 115日 (2011年 気象庁年報)  東京の3日に1回はだいたい雨

 

1.&2.地球 - Wikipedia

3.月まで歩いて10年ちょっと 第2章 [距離] 2.地球と月

3.HADEEPとは - 「新世紀を拓く深海科学リーダーシッププログラム」HADEEP

4.地球から太陽までは、何光年ですか?│太陽│宇宙科学研究所キッズサイト「ウチューンズ」

4.http://tokyo-roudoukyoku.jsite.mhlw.go.jp/var/rev0/0144/2426/2017112154858.pdf

5.都道府県別 降水日数(年間)ランキング: 教えて!全国ランキング 2017 〜都道府県ランキング 日本の統計〜

金平糖の精の踊りから花のワルツまで

肉豆腐とサラダ(サンマの水煮と水菜和え)を食べて、食後の眠気対策に濃く入れたインスタントコーヒーを少量飲んで、ソファに寝っ転がっている。足の向こうには青空が見える。若い気分になった。

 

部屋にはエレーヌ・グリモーのラフマニノフが流れている。調べてみたら、彼女は動物生態学をやっていて、いまでは狼の保護地区を作ったらしい。一気に好きになってしまった。詳細は『野生のしらべ』に書いてあるよう。

 

ラトサミーの件もあって、フランスに親近感がわいてきた。もともとはオシャレなイメージを勝手にもっていて嫌いだったけどな!。

 

昨日今日でクラシックについていろいろ学んだのでメモ。

 

バーンスタイン、カラヤン、ストラヴィンスキー、イオン・マリン、アルブレヒト・マイヤー、マリス・ヤンソンス、グスターボ・ドゥダメル、エレーヌ・グリモー、エサ・ペッカ・サロネン、ヴァルトビューネ、ウィーンフィル、ベルリン・フィル、ロイヤル・コンセルトヘボウ、バイエルンフィル、クラウディオ・アバド、サイモン・ラトル、サンジュエルマン・デ・プレ、ヒラリー・ハーン、ギドン・クレーメル、アダム・クーパー、イザベル・ファウスト、エマニュエル・パユ、マチダコトハ、カシモトダイシン、プロコフィエフ、シュテファン・ドール、アンナ・フェドロヴァ。

 

一部合ってないところあるかも。とにかくピアノはエレーヌ・グリモーが気に入った。バッハもラヴェルも好きだったんだけど、チャイコフスキーもよいなと思う。

 

初心者なりに楽しんでいきたい。

わりと金持ちの最期は

うだつの上がらない日々を送っている。昨日は友人の家にだらだらと泊まった。

 

友人は高級住宅街に住んでいる。駅までの帰りに、車道と同じくらいの幅の並木道を歩いた。メルセデス・ベンツが走る道路から目を移せば、右手側にはテニスコートがあった。早朝から裕福そうな年配の方たちが、ダブルスで汗を流している。せっかくだからと道なりにあったパン屋にも寄った。駐車場は満杯で、小さな店内は客でごった返していた。塩パンの値段は、私の住んでいる地域の2倍もした。

 

別に、私は幸せではある。いちおう、もっと高みにいきてえなという気持ちは混ざった状態で生活はしているけれど、強烈になにかを欲する感じでもない。拒絶したいことは山ほどある。いまこうして歩いているあいだに死んじゃってもいいやみたいないい加減な感覚もある。ただ、絶望して生きているわけではない。

 

私の祖父は金持ちで、今日見かけた人たちと似たような生活をしていたのだろうなと思う。質のよい運動、食事、服装。実家の蔵の2階にあった下駄や着物などは、いったいいくらぐらいするのだろうか。

 

祖父は死ぬ直前に、身の回りのものをほとんど処分した。売却というよりは捨てるといった体で、すっぱりと失くした。相続については興味もなかったようだ。葬儀の最中、私はお坊さんのありがたいお経を聞きながら、父は果たして相続税を払いきれるのだろうかとぼんやり考えたものだった。

 

これから火葬場へ向かうというとき、地元で校長先生をやっていた叔母が、棺桶にモーニングを入れた。天国に行っても、祖父は身なりを気にするだろうからとのことだった。「グッドモーニングだぜ」と祖父の身体に礼服を合わせながら言った叔母は、私のなかで身内ロックンロール大賞1位に輝いている。

 

私は父よりも祖父よりも、圧倒的に貧しい人生を過ごすだろう。ご先祖様は、相続のことも考えるなら、自己資本化を進んでするような組織体制をつくっておくべきだったと思う。貴族が宝石の真偽を専門家なしで見分けれたように、教養は力なのだ。知識はいくら鍛えあげても、税金がかからないというのに。

 

そんなよしなし事を、うんたらかんたら浮かべながら、今日も歩く。

 

不揃いに立ち並ぶビルの向こうに、飛行機雲が見えた。数分前に出来上がった縦筋の雲を沿うように飛んでいる。私はSUICAを13.5の角度でタッチパネルに叩きつけて改札のなかに入っていく。

 

 

2017年の目標

2017年になって、25日が経過した。

 

今年は元旦に暴漢に襲われることもなく、平穏にすごせている。去年は、駅から帰っている途中、午前2時から午前2時10分まで見知らぬ不審者と戦った。ThinkPadを片手に持っていた状態での開戦だった。非常に不利ではあったが、手練手管つかってなんとか無事に、帰宅したのだ。

 

さて、今年の目標を書いていきたいところだが、まずは現状を。いまは膝の上に白猫(耳としっぽは黄色がかったベージュ)が寝ている。部屋にはイギー・ポップのPassengerが流れている。

 

半分くらい嘘だ。

 

ひとつめの目標は、海外に住むことだ。2017年は、これだけできればいいや。来月には、IELTSを受験する。豊かな国に暮らしたい。海の近くがいい。ハイコンテクストにはうんざりしてきた。

 

ふたつめは、機嫌良くありたい。もっと気楽に生きたいなあと思う。広く自治の感覚を持ちたい。経営判断を、ゴキゲンなときに行いたい。

 

それ以外は特に思いつかない(もともと書きながら考えている)。

 

4.1kgに成長した猫が、暇になって手首を噛んできた。今日はここらで書くのをやめる。

 

文章仮免中

寒い。室温見たら11度だ。個人的には18度切ると動きに影響が出てくる。

 

今日の話は、入門者である自分についてだ。

 

長くやってればその道に詳しくなり、人にも教えられるようになる。仕事だって、オンラインゲームだって、恋愛だってそうだろう。

 

一つのことに詳しくなると、イメージの転用を他のジャンルにできる場合もある。そのせいもあって「自分が入門者である」という立場を忘れることがある。

 

人間、やったことがないことについては、だいたい初心者だ。

 

絵を描くことは、画家だった叔父の影響からか、いまでも続けている。腕は未熟なままだ。描くのは下手くそでも楽しい。

 

一方で、文章を書くときは、本の虫だったこともあってか、自分に求めるレベルが無意識に高いように思う。文豪をいきなり目指すのもどうかしている。そんな簡単に向田邦子になれてたまるか。

 

「自分が入門者だったらどうする?」と、考えながら書きたい。

 

もっと、書くことから離れて、もっと、びっくりするぐらい静かに身体を動かすことができるはずなのだ。

 

 

2016年も終わるし、弱点を書いておこうと思う

「信用できると思った人間に、自分と同等かそれ以上の知性があると思い込むこと」だ。

 

ここでいう知性は、経験、理性、ユーモアを含む。

 

ダメだった例を3つほど。すべてコミュニケーションの失敗。

 

事例1.

◆私視点

「悪いニュースほど早く知らせたほうがいい」と思い、以前から守られてなかった約束を守ってほしいと、朝一で友人に言った。

 

結果

「このクソ忙しいときになんでそんな気分が悪くなること言うんだ? 許さん」と喧嘩になる。

 

相手視点

約束を守ると損害が出る。(ほんとは契約関係の履行なんだけども)

 

◆改善点

相手に理性があると思わないほうがいい。人間は、想像以上に、脊髄反射で感情的になる。機嫌のよいタイミングを見計らう。

 

こう書くと暴論に見えるけど、シンプルにいうとそういうこと。

 

 

事例2.

◆自分視点

ゲームで、勝ちを確信した場面。最後の最後で、チームメンバーの味方に対して、ふざけて敵対行為にも見えてしまう行動を取る。

 

◆結果

味方から攻撃を食らって、敗北。

 

◆相手視点

敵が取りそうな行動をしたら、それは敵だから倒さないといけない。

 

◆改善点

論理でつめていけば、私が敵になることは99%ない場面。相手が経験者だと思い、勝ちの直前で一緒にふざけてゲームを終えようとしたのが原因。

 

おとなしくして、場面をあえて荒立てるようなことはしない。

 

ものすごく細かく言うと、OOPでいうところの、敵オブジェクトが持ちえるメソッドをあえてふざけて実行するという行為が、本当に敵オブジェクトとみなされ攻撃を受けたということ。初心者の前で、味方オブジェクト以外の振る舞いをしないこと。

 

 

事例3.

◆私視点

プロジェクトで結果を出そうと焦るあまり、とあるイベントにおいて、町中でやや強引なイベント参加をうながす。

 

◆結果

無理やり誘われて入った方からクレームをいただく。

 

◆相手視点

近くにいて見ていただけで、参加するつもりはなかった。

 

◆改善点

コミュニティデザインにおいて、共同体への参加 or 不参加は、本人が選択可能なものでないといけない。でなければ、「地元の日常」を設計していくことに、ならない。

 

ハレとケの境目がない環境をつくることが、ひとつの目的だった。「強く誘って参加してもらう」という行為が、シームレスという目的を壊している。

 

大学の新歓みたいな勧誘ダメ。いくら刺さる層には刺さったとしても、狙った方からの評判がよかったとしても、コンセプトから外れる時点でミス。

 

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だいたいがタイミングの失敗。

 

「わかる人にわかればいい(わからないやつは馬鹿だ)」という姿勢は本当にダメ。

 

「わかる人にわかればいい(わからない人はごめん)」は場合による?

 

「私のまわりにいる人間は、必ず私より頭がいい」と思い込むのはダメ。

 

「音楽を生業とする人間が好きな音楽家」を「Musician's Musician」というが、特定の生態系ではそれは許されない。

 

広く理解される必要がある。人に合わせてコミュニケーションを取り、自分が望む結果を相手から引き出さないといけない。

 

「〜しないといけない」と書いていくのは嫌いだ。

 

でも、反省を込めて書いておく。同じことを繰り返しすぎた。

 

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それでも別のところでは「頭がいい人は、頭のいい人が好き」というのは理解できてしまう。

 

「(自分が思う)頭のいい人たちだけを集めたコミュニティで生活していきたい」というのも、発想として、世間にぶらんと浮かんでいるのをよく見る。

 

「頭のいい人たち」という属性を変えたら、そんな願いはむしろ人間の根源なんじゃないかとすら思えてくる。

 

政治の場面で、政党とは「同じ思想の人たちを集めたコミュニティ」。仲のよい友人とだけ付き合うのも、極端にいえば「(自分と)気が合う人だけを集めたコミュニティ」にあたる。

 

言いたいこととしては、豊かさを考えるときに、いろんな存在のあり方があらかじめ想定されているコミュニティを大切にしていきたい。

 

lastwords.hatenablog.com

 

そんな感じで今日の執筆を終えたいと思う。

 

 

 

亀のごとき歩みだが、亀のごとく進むぞ

いちおう、狙ってることは上手くいき始めている。

 

人事尽くして天命を待ってみるものだ。

 

「1日1個、これだけはやる」というルールを適当に運用している。決めたことさえできたら、他がパーでも気にしない。それでよしとする。

 

ばりばり動いている人が私を見たら、亀を眺めてるウサギの気分なんだろうと想像できる。

 

でも、亀は後ろに進まないのだ。止まるか、前に進むしか、身体の構造上できない。

 

一日一歩ずつ、気の遠くなるような進み具合になるかもなあと、事前には思っていた。感覚よりは、ずっと早く予定が進んでいる。

 

人とは違った戦いかたをしたほうがいいなと思ったから、「1日1つだけ、なにをするか?」で勝負する。決めたことを、延々と延々とくり返す。

 

そんな生活のほうが向いているみたいだ。体力それほどいらんし。

 

lastwords.hatenablog.com


 

 

薄っぺらい自分と向きあう

 最近は、リサーチばっかりやっている。エクセルに英語のデータがたまっていく。

 

ときどき「私はなにをやっているのだろう」とも思う。

 

家族を作る友人や、家を買う人たちがいる。私はただ自分がやりたいことをやっている。言葉を変えれば、やりたくないことはほとんど辞めてしまった。

 

自由と表現すれば、たしかに自由。人と話すことはあるから、孤独ってほどでもない。

 

そんななかで、自分って薄っぺらいなあとつくづく感じる。

 

印象操作をして体裁を取りつくろったり、人に優しくするのも上手になった。

 

やろうやろうと思っていたことができなかったときも「対象について考えた時点で、それを実行したことにしよう。また明日考えたときに試せるかもしれない」とマラソンみたいな大人の考えもできるようになってきた。体力のないときも、無理をしなくなった。

 

でもどうしても「なにもできない自分」とはまた違う「偽りの世界が好きな自分」がいる。非現実的なことに心とらわれる。日によっては、現実に生きていない時間のほうが多い。

 

そんな状態のときは、家や土地のこと、結婚や子どものことなんて、頭のなかにない。

 

社会を動かす中身の部分に、自分が入れてないような気がする。薄っぺらいとはそんな感覚だ。

 

マンガの『プラネテス』で、主人公のハチマキが「嘘つきの自分と向きあっていく」と話すシーンがある。ハチマキが非現実的な目標(木星往還船「フォン・ブラウン号」の選抜試験の通過)に挑戦するとき、たぶんその場面が出てくる。いまなら、その心境はよくわかる。

 

私も、自分のなかでは真実を感じていることでも、世間に対しては嘘をついている気分になることを、これからもたくさん抱えていくだろう。

 

年齢のわりに人生経験がないと言われるかもだが、私は人から見たら価値がないものに入れ込むことはあるだろうし、薄っぺらい自分とは手を取って歩いていきたい。

 

 

途中の楽しみ

集中できるときは、きまってなにかしらの途中だ。

 

授業の最中がいちばん熱中できる。授業とは、家に帰るまでの途中だ。短くとらえれば、授業の終わりが見えているからこそ、間に浮いてる時間に集中できるとも言える。

 

古本屋で掘り出し物を探しているときも、友達の家でマンガを読んでいるときも、サンディエゴ行きの飛行機に乗っているときも、打ち込めるのは「終わりある時間」が見えているからだと思う。

 

無限に許可をされていると、やらない。図書館で一度に10冊借りたときなんか、1冊1冊にとてもおろそかになる。読書は無目的でもよいと思っているけれど、どうも身が入らないのだ。

 

ちょうど締め切りがないと文章を書かないのに似ているのだろうか。この日記もいま電車のなかで書いている。電車は、北に向かっている。

 

本当だったら、人生も終わりが見えていれば、1日1日もっと有意義に過ごせるのかもしれない。危ない目に遭って生還すれば、命の大切さが身にわかるかもしれない。でも、そうしなければいけないと思うことは、それはそれで、貧しいような気もする。無駄だって豊かさの種だろう。

 

私は途中というものが大好きだ。いまという時間は、いつかはこの世から去る途中ではある。それを、のらりくらりできれば楽しんでいきたい。

 

 

「考えが甘い」の「甘い」ってどういうこと?

回数は減ってきたけれど、考えが甘いと言われる。

 

そのときの「甘い」とはどういうことなのか考えてみた。

 

簡単に考えれば、アイデアの実現性が低いと捉えることができる。

 

本質的に考えれば、計画不十分であると解釈できる。

 

計画についての抽象性と具体性の幅(多くは具体性に欠けている)、それから、小さく事前に試行していれば、言われづらくなるんじゃないだろうか。

 

「考えが甘い」と言われると、発想そのものが悪いという気持ちになってしまう。でもどちらかというと計画に具体性がなく、かつ試行もしてなくて確実性も低いという意味で大半は使われている表現に思えてしまう。

 

「考えが甘いこと」は、計画が不十分であると考えていいのではないか。

 

あくまで、オペレーション(実務)の観点の問題なんじゃないの?

 

 

「豊かさ」とは「いんじゃね?」ではないか

幸せになることより、豊かであることを重視している。

 

と、言っても過言ではない。どうなんだろう。

 

まあ、書こう。とにかく、書こう。

 

今回は、豊かさについて考えてみたい。

 

英語で調べると、"wealth"になってくるんだけど、wealthって幸福度指数のときもたしか見た単語だ。幸福と豊かさを今回は分けて考えたいから、除外。

 

「お金がなくても幸せ系」のことも言いたくない。お金はあったほうがよい。

 

思いつくことを適当に書いていく。

 

・毎日楽しいこと

・自分の持っているリソースや自分のまわりの環境を認識

・幸せって気の持ちよう、豊かは違う

・なにをどれくらい認識しているのかで決まる

・自分の可能性

・自分がこれからどう過ごしていくか、少しでもわかっている、わかる方法をわかっている
・手段が多いほうがいいとよくいう、手段を知っていることが豊か

・量・濃さ、認識している情報、物の量が多いほど豊か

・豊かであっても幸せでない、でも不幸せな豊かなほう

 

私の知り合いが言ったことのメモから、結局ほとんどひっぱってきた。

 

私も、幸せかどうかよりは、自覚的に文化的であるかどうかを重視している。(私が豊かだと観測している対象が、仮に無自覚に文化的であったとしても。そこに優劣はない)

 

不満だとか欲望も、出りゃ出たまんまで、よいと思っている。より自由自在になっていくのは楽しい。"Knowledge makes your life easier"って好きな学習態度だ。

 

現時点でいえば、豊かさとは「いろんな存在の仕方が、いんじゃね?で済むこと」かなあと。

 

「許される」でも「受け入れられる」でもない。無秩序を目指そうとか自然状態とはなんぞや!ってもんでもない。

 

「いんじゃね?」くらいの軽い感じまでいかないと、成熟してると言えないんじゃない?

 

「実は、LGBTなんです!」

「いんじゃね?」

 

「実は、発達障害なんです!」

「いんじゃね?」

 

「実は、あなたの跡目は継げません!」

「いんじゃね?」

 

まとめていくと、「存在の仕方の問題において、問題にならない範囲がとても広い様」が豊かさである。

 

最初のほうで言った「手段は多いほうがいい」にもなる。さすが尊敬する知り合いだ。

 

「方法の選択において、問題にならない範囲が広大な様」が、豊かさなんじゃないだろうか。

 

価値判断の基準としては、「方法の選択において、問題にならない範囲の広さ」が広いか狭いかどうかで、貧しいか豊かか決めればいい。

 

まあ、「基準をもつのは自分」である。

 

コミュニケーションはたしかに結果だ。相手の視点を仮説でもって、Before→コミュニケーション→Afterのなかで、Afterを目指すのが人と接することだ。

 

それでも、生きるなかで、価値判断は自分が行うことだ。

 

とりあえず、私はいま豊かさについてはそう思っていると書いておきたい。

 

まあ、だいたい空間における存在のあり方の問題にはなるんだろう。

 

思考の脱力法 -概念にパラメータはあるのか?-

概念にはいろんなパラメータがあるんじゃないかと思っている。

 

「概念とは、言葉(単語)からくるイメージ」と言い換えてもいい。

 

イメージが身体へ影響を与えることはわかりやすい。

 

たとえば、「梅干し」と連想すれば、つばが出てくる。この場合は、「酸っぱい」という概念からつばが出てきていると考える事もできる。

 

つまり、イメージのパラメータに<つばの量>という項目があって、数値としてつばが、設定された量だけ出てくるのではないか。

 

2017年からは脱力していきたい。今後は、頭のなかにある概念のなかにある<緊張>というパラメータを見ていくことにする。

 

私は、「初めて経験すること」について<緊張>のパラメータの値が高いように思う。呼吸が一時的に止まって、身体がこわばる。

 

還元主義的にとらえれば、概念も細かなパラメータの塊なのではないか。<幸福>は100、<憎悪>が10、<義務>が60などいろいろあるはずだ。

 

リンゴが好きだから、リンゴを思い浮かべただけで、私はちょっと幸せになれる。この果実の<幸福>パラメータの値は、他のマイナスな感情の数字よりは大きい。

 

概念は「体験に対して、解釈としての感情を与え続ける」という繰り返しによって、形成される。強固な概念は、信念に似ている。解釈の仕方は、他人の介入があるか自分での判断かは問わない。*1

 

生の牡蠣を3回食べて、3回とも食あたりになった人は、牡蠣に対してさすがによい感情は持ちづらいと私には思える。*2

  

脱力ができれば、いったんは、ニュートラルな方向に戻っていけるのではないか。緊張するのは嫌だから、もっとリラックスできる考え方をしていきたい。

 

概念にくっついている感情を1回バラバラにして綺麗に組み直すことができれば、可能性は高まると思う。

 

思考の一部分を切り取っていうのであれば、思考することは概念を実行することだ。

*1:だいたいの場合、教育において「よいこと」と「悪いこと」が形成される。ここで言えることは、まず、「よいこと」と「悪いこと」がそもそもなんなのかの概念が与えられるということだ。そして、それぞれに対して、<喜び>だとか<義務>だとか<罰>だとかのパラメータが与えられる。よりそれらを細かくするなら、身体の状態に対してさらに影響を与えるものになる。つまり、ひとつの概念のなかに、パラメータとして他の概念が設定されることはあり得る。感情レベルまで概念が具体的になるのであれば、感情は身体へのフィードバックをしやすくなるだろう。ここで疑問になるのは、人間は自分の身体イメージを越えて、自分の身体を操作できるのだろうかということだ。<緊張>の概念を知らなくても、人間の身体は<緊張>することはできる。本人は気づけないとしても。

*2:それでも食べたい人は、レモンを多めにするか牡蠣フライにでもすればいいんじゃないかな。

最後までなにを信じるか

人はそりゃ絶望することはある。そんなときに最後までこれだけは信じようと思っていることはあっただろうか。

 

それも考えて寝たい。

 

あるとするなら、私がどういう状態であろうと、世界は気にせず回り続けるだろうなと思ったことはある。

 

そう思うと、ずいぶんと気が楽になった記憶がある。

 

たいていの絶望は、大事でないことを「これがなかったら死んでしまう」と思いつめるくらいにピントがずれていることから起こる。だいたいのことは気にしすぎなのだ。あまりに単純に言ってしまえば。

 

だからこそ、大切なひとつのものだけ毎日愛せればいいやってもなる。これだけはやりたいということを1つ1つ丁寧に繰り返しいく。

 

性善説を最後まで信じたいなんて言うつもりはない。性善説と性善説がどっちもいつまでも残るんだろうねってなら言えるか。